九井リノ

青いものが好き

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56歳からの育ち直り⑤

ここでいったん、わたしの絶望を整理しておこう。 もちろん、こうやって冷静に整理できるのは、今取り組んでいる育ち直りが功を奏しているからだ。当時は整理なんて、できるはずもない。 絶望1 女なのに女を好きになったこと。 同性愛を絶望だと言うと、同性愛が絶望じゃない人からバッシングされると思うけど、わたしにとっては絶望だった。 彼女の恋愛対象が男性だというのは、同席した飲みの席での恋愛話を聞いて知っていた。 自分が根本的に恋愛対象外の存在だというのは、キツかった。 異性

    • 56歳からの育ち直り④

      わたしが好きになったのは、売れているミュージシャンだった。 ライブに通っているうちにスタッフの責任者と知り合いになった。 その人と話している時に、「わたしの地方でも彼女のライブができるといいんですが…」と、言葉にした。 後日、その人から電話があり、「Mちゃん(わたしの好きな彼女)と相談して、企画進めてください」と言われた。 SNS経由で彼女にメッセージを送ると、話しがちゃんと通じていて、彼女も乗り気だった。 わたしは、舞い上がった。文字通り舞い上がり、地に足が付かな

      • 【小説実験】ちゃいろ

         右手が薄暗い。  枯れた草が鬱蒼としている。その奥に見え隠れする土手を越えると高速道路が走っているのだとわかる。車の音は聞こえず地図を見たわけでもない。けれども高速道路が走っていると、わかるのだ。  むき出しの土を歩いている。茶色く乾くむき出しの土。むき出しの土は亀の甲羅を割ったら出てくる。  鬱蒼と生える草と自分との間に高いフェンスがある。遮られているのだ。むき出した土を伝ってひとつながりなのに遮られている。それは運命なのかもしれないじゃあないか。  とにかく薄暗い。夕暮

        • 56歳からの育ち直り③

          わたしは、何もいらなかった。欲も無くなっていた。 ただただ、毎日を気楽に過ごし、一般的な寿命なら残り20年だか30年だかの人生を、消化することを考えていた。 それが、一変した。人を好きになったのだ。50歳だった。 わたしは女で、その人も女だった。彼女は売れてるミュージシャンだった。 わたしは1つのことに囚われ続けるたちだ。その強力な様は、持って生まれた特質と言っていい。 良い方に作用すれば、集中した事柄には成果を上げる。悪い方に作用すると、周りとの温度差が分からなく

        56歳からの育ち直り⑤

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        • 56歳からの育ち直り
          5本
        • 瞑想体験
          4本
        • 心理療法日記
          2本
        • 佐々木閑先生のyoutube仏教講義から
          5本

        記事

          56歳からの育ち直り②

          突然恋に落ちた話から続ける。 わたしは50歳だった。 午前中・週3回、フルタイム・週2回で、スーパーのパートをしていた。 経済的には切り詰めた生活だが、それまでの人生がしんど過ぎて倒れたので、伸び伸びと、気楽に過ごすことだけを考えていた。 他人のことは構わず、自分の好きなように一人暮らしをしていた。 帰宅したら好きな映画とアニメを見て、昼寝をし、休日は時々、美術館とかに行った。 ある日、親しくしている年長の人から、コンサートに誘われた。旦那さんが行けなくなり、チケ

          56歳からの育ち直り②

          56歳からの育ち直り①

          わたしの名前は、九井(ここのい)リノという。 1965年生まれの、56歳だ。 昨日(2021年11月7日)、 「わたしは今、心療内科に通って、育ち直しているのだ」 と、気づいた。 名詞で言うと、「育ち直り」だ(たぶん)。 子どもが4歳の時に、離婚した。わたしは30そこそこだった。 それから、親子2人の生活が、ずっと続いた。結婚はこりごりだったから、再婚はしなかった。 再婚はしなかったけど、付き合いはあった。約10年で4人と付き合い、うち3人とケンカ別れ、1人と

          56歳からの育ち直り①

          深海の王は重たい海の秩序を保っていた

          今日の瞑想 階段を下りていくとそこは海の中だった。 海を下へ下へ潜っていくと濃い藍色の海底に至った 深海だった 玉座に王が座っていた 冠をかぶりネプチューンのような三叉の槍を持ち下半身は魚の尾だった 王は難しい顔をしていた 「なぜそんなに難しい顔をしているのですか」と聞くと 「ここにはあらゆる難題が降りてくるからだ」と答えた 「ここで何をしているのですかと」聞くと 「難題が暴れないように秩序を保っているのだ」と答えた 「もっと下へ潜っていいですかと」聞く

          深海の王は重たい海の秩序を保っていた

          命が第1チャクラに着床する

          今日の瞑想 わたしは 水のような光で満たされている。 わたしは 光のような水で満たされている。 私の体の中は 水のような光で、 魚の尾のついた胎児が 下へ潜ってゆく 胎児は手が届かないほど遠くにあって 私の第一チャクラに着床する 体を満たす光の水を通じ 私の中にその胎児がいるのがわかる その胎児は 命であり 光であり 尊いものだ。 命がここにある わたしは 命だ。 命そのものだ。 命は 価値を何も示さず ただそこ 命だけがある。

          命が第1チャクラに着床する

          心の「パーツ」に出会う話~新しい心理療法の始まり

          心理療法で、不思議な体験をしているので、それを書きます。 まずは、心理療法が始まったいきさつです。 体験自体は、マガジン「心理療法日記」でまとめているので、よければ読んでください。 また、カウンセリングルームでなく自宅で一人でやった時の体験はマガジン「瞑想体験」に含まれています。 私は、クレームとか、理不尽な扱いとか、ネガティブなことを「ずっと」引きずるタイプだ。 ずっと、というのは、時間的にも、深さでも。 クレームは、何日も頭の中をリフレインする。 そのうち自

          心の「パーツ」に出会う話~新しい心理療法の始まり

          佐々木閑先生・仏教講義「ブッダの生涯 16」より

          「初転法輪」続き(第2回目)「中道」はユニークな教え。 お釈迦様というスーパーナチュラルな存在があり、お釈迦様にひたすら願うことで将来の喜びが手に入るのだ――ということなら「中間を行け」という「中道」の教えは、出てこず、「ひたすら信仰せよ」となるだろう。 「中道」は、そうは言わない教えなのだ。 なぜなら、仏教は何かに全てをささげるという宗教ではなく、自分で自分を変える、修行の宗教だから。 仏教内にある、「中道」と呼ばれる別の教え◆「常見」と「断見」を離れる 「常見」「

          佐々木閑先生・仏教講義「ブッダの生涯 16」より

          佐々木閑先生・仏教講義「ブッダの生涯 15」より

          初転法輪=お釈迦様の一番最初の説法【中道】 どのような心構えで我々は仏教の道を歩んでいくべきか。 欲望のままに生きている人には近づくな。厳しさこそが修行の本質だと思っている人には近づくな。→ 緩いのもダメだが、厳し過ぎるのもダメ。 具体的には 「八聖(正)道」 八つの生活規範。修行の基本的なやり方。 ◆正見(しょうけん)=仏教の教えに沿ったものの見方。 ◆正思惟(しょうしゆい)=仏教の教えに沿っているかどうか、合理的に考えよ。 ◆正語(しょうご)=正しい言葉を語れ。間違っ

          佐々木閑先生・仏教講義「ブッダの生涯 15」より

          からだへの違和感

          わたしは、自分の体への違和感が強くある。 その原因は分かっているけれど、原因は大きな問題ではない。 だいじなのは、体への違和感が強いことで、次のことが生じていることだ。 ①解離性障害(主として離人症性障害) ②「自分は何者なのか」という問い ③絶え間なく煩わしい感じ 煩わしい:面倒で気が重い。または、入り組んで複雑だ。 ①解離性障害 もっぱら心理療法で対応している。 離人症性障害の状態が強くなると、現実感が薄くなり、自動車の危険などへの認識が薄くなるといった生活上の

          からだへの違和感

          瞑想中に感じた、海の中のような青緑の光

          毎夜、瞑想をしている。 目を閉じて思い浮かべる。 やわらかな芝生の広場に、小さな小さな小屋がある。 入口のドアを開けると、見えてくる。 足元にぽっかりと四角い穴が開いている。地下室への階段がある。 そこから漏れている光が、青緑に揺れている。 階段を降りてゆくと、自分の体が光に包まれる。まるで海の中みたいだ。 水に包まれているような心地さえする。 私の体が、ゆったりとしている。 階段の下は、壁が見えないほど広い。 奥の方は薄暗い。けれど周りは、上方から差す光

          瞑想中に感じた、海の中のような青緑の光

          命の通り道を見た話

          (心理カウンセリングにて) きょうも、目を閉じて体を整え、イメージの中で階段を降りていった。 階段の周囲は、常夜灯のような淡い光だった。 階段を降りきると、人がいた。以前にも会った人だ。わたしを外界から守ってくれている人だ。仕事をそつなくこなし、人間関係を円滑にやり過ごしてくれる。この人のおかげで、わたしは社会生活を送れている。 この人は大抵パソコンに向かっているのだが、きょうはいすを立って、ほほえみながら、奥の方を手で指した。 奥へ進むと、重たそうな木のドアがあっ

          命の通り道を見た話

          佐々木閑先生・仏教講義「ブッダの教え 23」より

          万能の誰かが次は天上に生まれ変わるなどと、決めるのではない。我々(の行為)以外に、我々の将来を決めるものは何も無い。それが「業」というものです。 これをもって他の人に「現在の不幸は過去の悪業による」などと言う人があるが、そんなふうに言うのは罪悪です。なぜなら、この「業」の話はお釈迦様とあなたとの対話だからです。他の人を云々する材料ではないのです。 *上記は、下記youtube動画をもとに筆者がメモしたものです。受け取り違いなどがある可能性があります。

          佐々木閑先生・仏教講義「ブッダの教え 23」より

          佐々木閑先生・仏教講義「ブッダの教え 22」より

          究極の安楽とは、年を取っても、病気になっても、死を目前としても安楽であることです。 この教えを全ての人に説き広め、みんながこのやり方で行きましょうと言っているのではありません。 仏教はあくまで、苦しみに耐えきれない人を待ち受けるという姿勢で、このような価値観を説くのです。 「法は知り難いと見よ」 人は誰でも自分が正しいと思う。そういう本能だから仕方ない。しかし、別の視点から見たときには正しくないと判断できることを、理解しなさい。 *上記は、下記youtube動画から筆

          佐々木閑先生・仏教講義「ブッダの教え 22」より