素直さの重要性と、それらを消しさろうとする危険性に関する考察。 ドストエフスキー『罪と罰』との対話。
文字数:約6,390
早速で申し訳ないが、ドストエフスキーの『罪と罰』を読んだ。小説自体は非常に長く(新潮文庫版は上下巻合わせて900ページくらい)、解説書等含め、ここ一ヶ月くらい貪るように『罪と罰』に取り組んできた。途中で難しかったり退屈に感じてしまったら(これはエクスキューズではなく、読書とは強制されるべきものではなく個人の自由だと私は信じているからである)、そっと離れようと思っていたが、以外にもすんなりと読めたし、Netflixをイッキ見したような(と言っては、そんな軽々しくドストエフスキーを語るな、とどこかのお偉い様方はおっしゃるのかもしれないが)、爽快な気分を感じたのだ。
要するに『罪と罰』は素直に面白かったのだ(これはあくまでも私の所感ではあるが)。主人公ラスコーリニコフが犯した罪に対する彼自身の意識の描写、この作品の魅力はそれらの醜くも美しいリアリスティックな心理描写にあると私は思った。ウィキペディアによれば、この書物は初めは「ある犯罪の心理報告書」というタイトルで構築されるべきものだったとも記載されているし、確かにこれは人間の極限状態における心理観察記録とも読めるのだろう。
あらすじはウィキペディアや解説書でもさらうことができるが、私にとっては中田敦彦によるYoutubeの解説(というか要約)が面白くとても愉快で、すっと頭に入ってきたので、そちらも是非参考にしてほしい。
ところで、私は書物の要約はあまりしない口である。私の面倒臭がりが単純に作業を避けたがっているからだし、この備忘録の目的は、書物を読んだ私自身による感想と所感、分析と考察などを記載し、今後の私生活への何かしらの糧になればという思いによるからである。
したがって今回は、そのような私自身の主観的な考えを記録したい。私たちが日常に感じる罪そのものに焦点を当てて観察し、どのようにそれらの概念と向き合うべきか、そしてどのようにそれらの観念を消化し、毎日の生活に役立てていけるかを考察したいと思う。
とはいえ、まずは『罪と罰』に取り組むに当たり、私が重要だと思った前提条件的知識を以下に引用する。タイトルと登場人物の名称の背景についての前提知識である。
まずはタイトル。
作家の佐藤優も彼の『罪と罰』の解説書で、「踏み越えること」が最重要キーワードだと言っていた(佐藤 優『生き抜くためのドストエフスキー入門―「五大長編」集中講義― (新潮文庫)より)。ルールで決められた法律としての犯罪はもちろんだが、それと同時に人間が超えてはいけない一線を越えること(そしてこれは普遍的であると私は信じている)、これが『罪と罰』のタイトルである。
次に、登場人物の名前。
主人公ラスコーリニコフは分裂した存在で、心の中で天使と悪魔が戦っているようである。あるいは異端者的な意味の名を持つ。一方、ラズミーヒンは「理性」。他にもスヴィドリガイロフやポルフィーリーらにも名前の背景はあるのだろうが、これ以上進むと脱線しそうなので上述に留めておこう。余談だが、私はスヴィドリガイロフの登場シーンが気に入っている。人気ドラマの名シーンのようで、これぞヴィランといった感じで、うおおっと思ったのだ。
さて、罪なる概念の観察について。
冒頭で引用した文章の主体はラスコーリニコフなのだが、彼は二人の人間を殺害した結果、何か理性を超えた直感的な感覚、邪悪な苦しさを伴う感覚を抱いた。ところで、逆に私のイメージでものを申し上げれば、そのような行為を犯しておきながら、そのような感覚が発生しない人間は異常なのだろう。
「PSYCHO-PASS サイコパス」という私のお気に入りのアニメがある。「シビュラシステム」という人間心理観察システムが世界を管理しているSF物語で、そのシステムによって「犯罪係数」が規定値を超えたと計測された人間は、実際に罪を犯しているにせよ、犯していないにせよ、今後そのような可能性があるとして警察に逮捕される世界である。
ただ、その世界には「シビュラシステム」では判断できない「免罪体質者」というイレギュラーな存在がいる。彼らは犯罪に手を染めようとするその瞬間と、その後にも冷静であり続ける。少なくとも彼らの「犯罪係数」は正常値を示し続けている。要するに、彼らは"サイコパス"である。サイコパスと社会システムとの戦い、はたしてどちらが本当のシステムエラーで、どちらがより正しいのか、そのような倫理哲学的な問いかけ。
話が脱線してしまいそうなのでここまでにしておくが、いずれにせよ、ラスコーリニコフはそのようなサイコパスではなく、彼は正常な人間であり、恐らくは彼の「犯罪係数」は物語を通して爆上がりしていたに違いがないと言えそうだ。しかし、この「犯罪係数」がどこまで私たちの心理状態を把握でき、このシステムにおいてどのような行為に犯罪とそうでない行為との線引きがなされ、それら規定値が設定されているかという問題は置いておくとして(それはアニメ世界の設定の話だから)、私たちはラスコーリニコフと同様にとまではいかずとも(もちろん極端な心理状態は想像することはできても実際に体験していないからには何も言えないだろうし、むしろ経験したくはないと直感するだろうから)、少なくとも罪の意識に苛まれることは多々あるのだろうと私は思う。
何か"悪い"をしたなあ、と自分が自分に問い詰めることなんて、私生活を送る上でいくらでも経験するだろうと思う。いついかなる時も"正しい"行為ができれば、それはそれで立派だし、そうあるべきだろうと私は思うが、なかなかそうともいかないのが現実なのだろう。そもそも"正しい"とか"悪い"とか、善悪の判断基準なるものは、新自由主義的なこの世の中においては、あまりにも曖昧で微妙なニュアンスの事柄なのではなかろうか。
もちろん法律で社会的に取り決められたルールを越えることは、社会的に悪いと決められているからこそ、それは悪いことであると私たちは教え込まれるが、法律の全てが"悪い"ことを完全に規定しているとは私にはどうしても思われないのである。「悪法も法なり」とも言うし、つまりは実は法律の方が間違っていて、より"正しい"ことを"悪い"こととして規定していることも無きにしも非ずかと思う。
法は法であり、規則は規則であるが、私たちの善悪の判断基準と、そのような外部的規定は完全に一致させるべきではないのかもしれない。そのように記載すると、なんだが過激派の意見っぽく聞こえるが、完全な正義や完全な悪なる概念は、私たちの虚栄心はそれらの絶対性を信用したがるが、冷静に客観的な分析をしてみれば、それらはより"正しい"だとかより"悪い"といった程度のぼんやりとしたレベルでしか判断できないものではなかろうか。
「これこそが正しいのだ!」、という気取ったような刺々しい口調は自己正当化の防衛戦術の一つにすぎない。大抵の場合には、立場や権力がそれらを正当化するが、そこに論理で対抗することは控えるべきなのかもしれない。いわば、これは戦略的撤退である。彼らのロジックは全くもってロジカルではなく、むしろイメージなる感情論で出来上がっていることが多い。情念に理性で対抗しても、大抵の場合には情念が勝利することが多いとすれば、むやみに反抗すれば、こちら側も感情論にひれ伏すことになるのだ。
そうなれば、彼らの思うツボである。感情と感情が戦った場合に、どちらが勝つのかは一目瞭然だからである。もはやこちら側には勝ち目がない。だとすれば、処世術の一つとして、やたらめったらと反抗に心を燃やすことは避けるべきだと私は思うわけなのだ。断言したいのだが、彼らの感情はすぐにまた別の感情に切り替わるのだから、今はそっとしておいてあげればよいのだ。そして、私自身の内部でまだかまだかとくすぶる邪悪な感情に隙を与えなければよいのだ。
私は絶対性を極度に嫌っている。プロパガンダはファシズム的土壌を生成する危険性があるからだし、絶対性は私たちを酩酊させるからである。「これはこうである!」、と対話を一方的にはじめ、一方的に終わらせるのはもはや居酒屋でのおじさま方の説教に等しい。ちなみに19-20世紀のフランスの社会学者 ギュスターヴ・ル・ボンは彼の『群集心理』で以下のように述べていた。なお、『群集心理』はアドルフ・ヒトラーの愛読書だった。
絶対性から一歩引いたとき、そこには論理の世界がひらけてくる。何が正しく、何が間違っているのか、という思考実験の数々。対話の意味はここにあると私は信じている。仕事をしていて私は思う。私たちには対話があまりにも欠如しているのだ、と。
私たちは対話をできるだけ避けようとして、あらかじめ相手のことを想像しすぎるが故に、物事の本質を歪め、仕事の分量を自ら増やし、それに対して憤りを覚えるのだ。対話を避けたがる精神は、話をしようとしている方々がなんだか単に怖そうに見えるからだし、なんだか偉そうで権力者のように見えるからである。あるいは単に論理の道を進むことが面倒くさいから、という悲しむべき理由によるもかもしれない。
いずれにしても、多くの場合、私たちの邪魔をするのは思い込みである。そして、思い込みから派生する自己防衛的心理は、私たちの口に言い訳ばかりを走らせるのだ。「なになにだと思っていました」、彼らの論拠は想像力によって鍛え上げられたイメージに過ぎず、そしてイメージであるが故に、その論理を紐解いていけば、自然と自らのほころびを表明することになるのだ。これもまた、思い込まれた正義の姿形をした絶対性によるいたずらである。
物事の善悪を、対話性のうちに見出そうとする勇気は、理性による勇気だと言えそうだが、罪の概念は理性よりも上位に位置する道しるべなのだろう。何か"悪い"ことをしたとして(あるいはそれを"悪い"こととして自らが自らを判断したとして)、その時に、素直にそれらを"悪い"ことであったと後悔し、反省しようと心は反応するはずである。
この心のありようこそが一事が万事なのだろうと私は思う。ラスコーリニコフが天使と悪魔の両面性を備えた存在であったように、私たちはそれら二面性を備えた存在であり、その何らかの境界線を踏み越えること、さらにはこれらの境界線は一層ではなく、何層にも連なっており、それらの階層を一つ一つ踏み越えてしまうこと、そしてその行為や心情に対する自らの心の反応、どんなに理性で自己を正当化しようとしたところで、それは徒労である。
なぜなら、他人には嘘はつけても、自分の心には嘘はつけないからである。私たちはいつまでも自分と対峙し続けなければならないが故に、自己からは完全には逃避することはできないのである。自らの罪は、後からなんらかのストーリーをくっつけて、その本質を捻じ曲げ、論理的に正当性を持たせること自体はできるのだろうが、心は心であり続け、心が反応している限りにおいて、それらは言い訳の範疇を超えないのである。
しかし、心を反応させないようにする方法もあるだろう。理性の力を維持しながらも、心を反応させないようにする方法である。より正しくは、心の反応を封じ込め、見なかったことにするような方法である。酩酊は私たちの理性を曇らせることなしに、心の光を弱くさせることができる。私たちは饒舌に気分をよくし、より強固なロジックで、何らかの絶対性の甘い蜜を舐めまわす。
私たちには対話も足りなければ、素直さも足りない(正しくは私たちは足りないの"かもしれない"。ここでも私の饒舌はこのように物事を決まり切ったように判断したがっているから、どうしても私は"思う"だとか"かもしれない"と語尾を濁したいのだ。それは逃げなのかもしれないが)。
私たちは誰もが罪の意識を持っているはずである。物事の善し悪しの判断は、これなくしては成立しないが、これなしで物事の善し悪しを判断しようとする行為を、何と表現すればよいのだろうか。
PS:またつらつらと冗長な備忘録を書いてしまったと反省しているが、『罪と罰』はエンタメとしても非常に面白かった。
「アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフです、よろしく」
2023/08/27
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