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ゲーテの人生塾に入門しました。 エッカーマン『ゲーテとの対話 上巻』との対話。

文字数:約3,830

ヨハン・ペーター・エッカーマンがゲーテと出会ったのは、31歳の頃だった。詩を勉強する目的で、ゲーテの人生塾に入門したのだ。塾と言っても、生徒はエッカーマン1人だけ、教室はドイツのヴァイマルにあるゲーテの邸宅というなんとも贅沢な体験だった。「ゲーテとの対話」は、エッカーマンがゲーテと過ごした9年間をエッカーマンが記録した人生語録である。(全3巻)

「この並外れた精神的な人間(ゲーテ)は、いわばどの方角にも違った色を反射してみせる多面的なダイヤモンドになぞらえることができる。だから彼ゲーテが、様々な状況において、また様々な相手に応じて、別の人間であったように、私(エッカーマン)もまた、私の場合に、ただ全く謙虚な意味で、こう言いうるに過ぎない、これは私のゲーテである、と。」

「私(エッカーマン)は、彼は膝をつき合わせて、話すのも忘れて、彼(ゲーテ)に見とれていた。いくら見ても見飽きることがない。全ての点に、なんともいえない真摯な確かさ、なんとも言えない平静な偉大さ。」

「(ゲーテの朗読は)なんという声の変化の豊富さであり、何という力強さだろう。皺だらけの大きな顔は、何と表情豊かで、生き生きとしていたことだろう。それに、あの眼は。」

これはあたかも、愉快なゲーテ爺さまにぞっこんの好奇心旺盛なエッカーマン少年と一緒に人生塾に入っているような幸せな読書体験である。なお人生塾とは私が勝手にそう呼んでいるだけのことだ。

ゲーテといえば、「若きウェルテルの悩み」や「ファウスト」が有名だろうか。それにしても「ファウスト」の難解さと言ったら。正直申し上げると、私には全く理解が不可能だった。そんな時、ゲーテは笑いながらこう言うだろう。「もちろん。私なら、『ファウスト』はまだあなたにはおすすめしませんよ。あれはとんでもない代物で、あらゆる日常の感覚を超越しています。」これはゲーテが若いイギリス人に対して、発した言葉である。

ゲーテは文豪というイメージが強いが、他にも様々な肩書を持ち、幅広い分野の自然科学者でもあった。そのためエッカーマンがゲーテと交わした対話は詩という領域をはるかに超え、人生一般、ひいては世界中の現象に話題が及んでいるのだ。まさに賢者というにふさわしいゲーテとの対話に耳を傾けることで、「我々自身の内面のみならず、我々の外にある世界を、一層はっきりと意識するようになる。」とエッカーマンも言っているように、人生の指針となるような思想を学ぶことができる、まさにこれはゲーテによる人生塾なのだ。

ゲーテとエッカーマンの対話は基本的には、本業の文芸作品の批評がメインなのだが、ゲーテによる人生のレッスンが所々に敷き詰められている。上巻で一貫して通っている彼のテーマは「主観」と「客観」、「現在の最重要視」、それから「本質の探求」だと思っている。「ゲーテとの対話」はいわばエッカーマンの日記であり、そのため下記は脈絡など度外視にして、談話の中に出てくるエッセンスを抽出している。(あえて主語であるエッカーマンを省略することで、あたかもゲーテが自分に語りかけている気持ちになるよう構成した。)

(DAY 1) 大きなことをするということ。
ある日、大作を作ろうとして苦心している様子を見て、ゲーテはこう述べる。「あまり大作には用心したほうがいいね、、、いつかは目標に通じる歩みを一歩一歩運んでいくのでは足りない。その一歩一歩が目標なのだし、一歩そのものが価値あるものでなければならない。(そうすれば)毎日が喜びを与えてくれることになるだろうよ。」

つまり、目標は大事なのだが、いきなりそればかりに気を取られてはいけない。そうではなくて、目標を細分化していけば、その果てに目標が達成されると言っている。

また、目標についてもそれが正しい考え方でなければ、心からの喜びも何もない単純作業、いわばマンネリズムに陥ってしまうとゲーテは諭してくれる。「彼らは、作品の完成によって手に入れたいと望む利益のことばかり、いつも目の前に浮かべている。だが、そんな世俗的な目的や志向を持つようでは、偉大な作品など生まれるはずがないさ。」

ゲーテは現実にこそ価値があるとする。それは、その現実の積み重ねが本質(真理)に向かっている場合、私たちは一つ一つの事柄に丁寧にならざるを得ないからだ。そのように正しい心があれば、一見単純に見える作業も、楽しくなるに違いない。心がそう望んでいるからだ。

真理とは善のこと。善に向かう正しい心構えをまず知り、心を善に向けなければ、そこには新鮮味がなく、独創性もなく、楽しみもないマンネリズムに苦しむ、とゲーテは警告しているのだと私は解釈した。そうすれば、「仕事をしながら、世にも純粋な幸福を楽しみ、完成することなど考えても見なかったことがわかるのだよ。」

(DAY 2) 趣味について。
ある日、ゲーテは「趣味」についても、興味深いパースペクティブを与えてくれた。「趣味というものは、中級品ではなく、最も優秀なものに接することによってのみつくられる。君が、自分の趣味をちゃんと確立すれば、他のものを判定する尺度を持ったことになり、他のものを過大ではなく、正当に評価するようになるだろう。」

最高のものとは、良いもの。良いものとは善、そして善は真理を示す。つまり、その領域の真理に触れれば、判断基準が出来上がり、また真理に触れること自体に幸福(楽しい)を見いだせるため、それが趣味になっていくという意味だろうか。真理は、善という意味ではある程度共通しているから、それがどんな種類のものであっても、その領域の最高なものは真理であり、つまり楽しめること、趣味が形成されるということだ。

(DAY 3) 人との付き合い方について。
自分と合わない人とは嫌な気持ちにもなるし、何の関係も持ちたくない。そんな時、ゲーテは愛情を込めてこう叱ってくれる。「自分の生まれつきの傾向を克服しようと努めないなら、教養などというものは、そもそも何のためにあるというのか。私は、人間というものを、自立的な個人としてのみ、いつも見てきた。そういう個人を探求し、その独自性を知ろうと努力してきたが、それ以外の同情を彼らから得ようなどとは、まるっきり望んでもみなかった。」として、他人を自分に同調させることの馬鹿馬鹿しさを説いた。

教養とはつまり、個人の探求であり、エピクテトスが言うところの自分の「権内」にあるものと「権内」にないものを区別し、その上で自己の真理を探求するための養分であると、この説教を解釈した。

人は、十人十色。私を好きな人もいれば、嫌いな人もいる。他人の主観的判断に痛みは感じるはずがないのだ。自立し2本の足でたった人間として自分を見ているからこそ、自分を自分で学ばせられる。だからこそ、周り(多様性)が見えてくるし、ここにゲーテが言うところの「人生に必要な能力(人付き合いなど)を知ることができた。」のである。

(DAY 4) 他人を非難するな。
他人を非難することについて。まずは自分を見てみよと、これまたゲーテは説教する。「自分は勝手気ままに振る舞いながら、他人のすることにはいちいち目くじら立てて、自分で自分に愛想をつかし、世間の反感を買う。私が悪いものを悪いといったところで、一体何が得られるだろう。だが、良いものを悪いといったら、ことは大きくなる。本当に他人の心を動かそうと思うなら、決して非難したりしてはいけない。大事なのは、破壊することではなくて、人間が純粋な喜びを覚えるようなものを建設することだからだ。」

まずは、自分の無知を知る努力をしよう。いつも良いことに向かい行動しよう。そして何より良いものを判断するための教養を身につけよう。

(DAY 5) 前進する社会は客観的である。
ゲーテは打ち明けておきたいことがあるといい、「主観」と「客観」について、こう話した。「後退と解体の過程にある時代というものは全ていつも主観的なのだ。」として、逆に前進しつつある社会は客観的であると結論づけ、そのような社会では、「有意義な努力は、内面から出発して世界へ向かう。」と述べた。

客観的とは、普遍的である。普遍は真理を示す。つまり解体の過程にある社会とは、真理ではない社会、歪んだ社会であると解釈した。また、主観とは感情的であり、怒り、不安、無秩序などを意味する。真理を見つめることは、世界を見つめること(内面から出発して世界=真理に向かう)であるから、それは客観的であり、真理を見つめようとするからこそ、有意義で自然な努力がなされるのだ。


ある日エッカーマンは、豊かな太陽と澄み渡る青空を背にゲーテと広大な丘の頂上にいた。彼らはピクニックをしていたのだ。そこでゲーテはこう話しかける。「主観というものは、どんな現象の場合にも、思ったより重要なのだ。人を楽しませることができるのは、その人が楽しいときだけだろう、とね。」そして、愉快に楽しげに、微笑みながら「当分の間こんな天気が続くなら、我々の遠出もこれっきりにしないで、またやろう。」ゲーテ爺さまとのデートを心から楽しむ、エッカーマンなのだった。

つづく(下記、中巻、下巻のリンクです。)

ゲーテの人生塾に入門しました。 ゲーテとの対話 中巻

ゲーテの人生塾に入門しました。 ゲーテとの対話 下巻

2020/05/03


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