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ゲーテの人生塾に入門しました。エッカーマン『ゲーテとの対話 下巻』との対話。

文字数:約2,710

ゲーテの死後、エッカーマンは「ゲーテとの対話」を完成させる。ゲーテと親しく触れ合った過去を、今では叶わぬ感動を、彼自身の内部に沈潜した記憶と再び対話を続けた。そうして、エッカーマンは、ゲーテと過ごした9年間の対話記録を「ゲーテとの対話」として出版することになる。エッカーマンは再び、「生けるゲーテとの水魚の交わりを結ぶにいたった」ことに喜びを覚えていた。(全3巻)

ゲーテの人脈は幅広かった。邸宅には、文芸家、劇作家のみならず政治家、貴婦人、学生など色々な専門家が集まった。いわばサロンであった。作家だけではなく、自然科学者としても生涯を捧げていたゲーテは、様々な専門家との会話を通して、教養を高め続けていた。特にゲーテとソレ(ジュネーブ出身の自然科学者)は「馬が合い」、ともに自然観察に出かけることも多く、ゲーテはソレの自然への愛に共感していた。

「ゲーテとの対話」下巻はあくまでエッカーマンの記録であるが、加えて、ゲーテとの親交が特に深かったソレの記憶、メモを参考にしながら、エッカーマンによって補完された対話集である。下巻のテーマは「自然」と「青春」である。下記は、対話のエッセンスを抜き出したものである。

(DAY 10) 純粋な心が物事の真実を開く鍵となる
ゲーテはある日、自然科学の世界でもどんな世界でも、学問や知識や仮説ばかりに気をとられると正確に自然観察ができなくなるとソレに述べる。「目や耳があるのは実は知るためなのだ、という昔ながらの真理は依然として正しいと思うのさ。(それから)自然を観察するには、何ものにも妨げられず、先入観にとらわれない心の静かな清らかさとでもいうべきものがどうしても必要だね。子供は、花にとまった甲虫を逃さないし、その全神経をただ一つの純粋な興味に集中する。それと同じ時に、たまたま雲の形態に奇妙なところが現れて、子供の目をそちらへ引きつけようとしたところで、子供は一向に気がつかないものだよ。」

純粋に「知る」というピュアな気持ちは、自然を観察すること以外にも当てはまりそうだ。ソレは、ゲーテの発言を受けて、「子供達や子供達みたいな人たちというのは、科学の分野では、全く立派な助手の役目を果たす」と純粋な「知る」気持ちが自然科学観察に必要だと述べる。そしてゲーテも「(願うことなら)我々がみな良い助手である以上に何者かになろうとしないことだ。我々はそれ以上のものになろうとしたり、哲学や仮説といった大掛かりな道具をところ構わず持ち出すからこそ、駄目になるというわけさ」と、主観の入り混じった好みではなく、純粋な心が事物の真実の姿を捉えるヒントになると語る。

(DAY 11) 青春の人 ゲーテ
ソレはゲーテを、「学び続ける永遠にいつも変わらぬ青春の人」と表した。「ゲーテは自然の究明に努めながら、森羅万象を包括的に捉えようとしているので、一生かけて特殊な分野の研究に打ち込んでいる個々の著名な自然研究者に比べると、どうしても不利にならざるを得ない。ゲーテはむしろすべてのものに共通する偉大な法則を直感的に捉えようとしている。だからゲーテは、、、自分に不足しているものを彼らに見出し、、、彼らによって埋め合わせをしている。」と。

ある日、ソレはゲーテに弓矢の知識を教えることになった。ソレは、自然科学者であり、自然観察のことに熱狂的な知識を持っている。自分で弓矢を作成した際に考えていた知識、実験、(どのような木が弓の柄(え)にふさわしいのか、その種類、環境、生えている場所、季節、矢はどうか?羽はどうか?などの観察と実験と失敗)をゲーテは、「私はこういう話を聞くのが大好きだ。」と興味深く聞いていた。

「弓が好きになったおかげで、全く素晴らしい知識を身につけたよ。それも実地でしか得られないような行きた知識をね。こうゆう知識は、決まって熱狂的な性向の賜物なのだ。その性向が、我々を事物の内部へと駆り立てる。また、探求と過ちを通して人は学び、単に事実を知るだけでなく、その領域全体に明るくなる。」と熱意を込めてコメントした。

ゲーテは、ソレに感謝の気持ちを込めて、ある民族(弓で有名な民族)の弓があると教え、持たせてあげようと提案する。ソレが見事に弓を射る姿を見て、ゲーテもやらせて欲しいといった。老齢のゲーテが放つ矢は、少し上がって落ちてくる。ソレが走って取りに行き、もう一度とゲーテが放つ。ソレはゲーテの姿を見て、「尽きせぬ青春を内に秘めたアポロンのようであった。こうして弓矢を射っているゲーテが、途方もなく好きになった。」。
ゲーテも夢中に弓を射る。ソレは青春の姿をみる。

(DAY 11) 芸術と人間と自然
ソレとゲーテは、ルーベンスの風景画を見ていた。その風景画は、自然現象を超越したものであり、ゲーテはそこに「彼が、自由な精神によって自然を乗り越え、自分の一層高い目的に叶うように自然をこなしていることを明らかにした。」とルーベンスを表現し、「芸術家は自然の奴隷であり主人であり、自由奔放な精神が自然と身を結んだものが芸術」だと話した。

また、ある日ゲーテは、ソレの鳥類に関する知識を聞いている時、自然は奇跡のようなものであると語った。自然には説明もつかない現象があるといい、「私たちは、奇跡そのものの中に埋没している。事物の究極と最善の姿は、私たちには見当もつかない。(例えば)蜜蜂を見てごらん。蜜蜂は幾度も方向を変え、狙いの花を変え、的確に飛んでいける。だれかがそう言ったのだろうか。」と。

ゲーテは、「科学と芸術は現世的なものや、人間が生み出したもの」を超えていると語る。例えば、「シェークスピア、モーツァルト、ラファエロなど(ほかにもすべての偉人)は、人間の意志と人間の力でもって、このような作品と比肩できるようなものを作り出すことはできず、偉人は凡俗な人間性を抜け出して神の恩寵を受けていた。そういうわけで神は、より低いものを引き上げるために、より高い人たちのうちで活動し続けている。」

これは「私のゲーテである」とエッカーマンは「ゲーテとの対話」の内容を表現した。私にとっては「私」にとってのゲーテであるとは、とても言うことはできないし、ゲーテも言っていたように「無理をせず」に、「自分」との対話を続けようと思う。新型コロナウィルス緊急事態宣言の延長は、「自分」と向き合う期間や機会という意味では、悪くないのかなと思う。

(下記、上巻、中巻のリンクです。)

ゲーテの人生塾に入門しました。 ゲーテとの対話 上巻

ゲーテの人生塾に入門しました。 ゲーテとの対話 中巻

2020/05/06


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