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ゲーテの人生塾に入門しました。 エッカーマン『ゲーテとの対話 中巻』との対話。

文字数:約3,080

1832年3月22日ゲーテは、82歳でその生涯を閉じる。ファウストを完成(?) させた翌年のことだった。エッカーマンは、「一人の完全な人間が大いなる美しさを秘めて私の前に横たわっていた。私は思わずそれに心を奪われ、一瞬、あの不滅な魂がこの肉体から去っていたことを忘れていた。、、、溢れる涙の流れるに任せた。」と深い感謝と打ちひしがれる悲しみに暮れた。

1823年からはじまったゲーテの人生塾は9年間続いた。生徒はエッカーマンただ1人。教室はドイツのヴァイマルにある荘厳なゲーテ邸宅。9年間をゲーテとともに過ごしたエッカーマンは、ゲーテの真髄を学び、エッカーマン自身の血となり肉となった。「ゲーテとの対話」はそんな特別な体験を日記形式でエッカーマンが出版したものである。(全 3巻)

中巻で重要なテーマは「自然」「神性」「悟性の限界」だと思っている。下記は、対話のエッセンスを抽出した摘要である。

(DAY 6)偉大なものは、一握りの人に向けて。
ある日ゲーテは、エッカーマンに「並外れたもの(ゲーテの作品)」は「世にもてはやされるようなことはない。大衆ではなく、同じようなものを好んだり求めたり、同じような傾向を取ろうとしているほんの一握りの人のためにある。」と打ち明ける。

もてはやされるということは、多くの人が話題にする、珍妙なもの、新しいものという意味。他人、大衆の反対は自分、内面的世界。内面から世界に向かうことは真理であり偉大なことで、真理は内面から外面に向けられる。

もてはやされるには、多くの人に向けて発信し、みんなに好かれようとしなくてはいけない。つまり世間に向かうベクトルは、内面に向かうそれと初めから逆行するため、偉大な作品はもてはやされることはない、という意味だろうか。

偉大な作品は教養となる。例えばゲーテの作品は、詩人であろうがなかろうが、その精神を求める人、そこの「趣味」を見出そうとする人、そこに心の喜び悲しみ情熱を探し求める人のために偉大な作品がある。「趣味」とは真理を見つめる心から生まれるから、偉大な作品、精神に触れることが教養となる。(作品、物事を鑑賞しうる能力という意味の趣味、美意識、審美眼のこと)

(DAY 7) 偉大な人とは?
ある日美術品を鑑賞しているとゲーテはエッカーマンに、「ひとかどのものを作るには、ひとかどのものにならなければならない。」と思いついたように話した。「美術家自身もひとかどのものに成長して、結局個人的な偉大さを持って、自然と向き合った。、、、何か偉大なものを創ろうとする者は、自分の教養を向上させ、ギリシャ人みたいに、自分に劣っている現実の自然を自己の高みにまで引き上げ、自然の現象の中では、内部的な弱さやあるいは外部的な妨害のために単なる意図にとどまっているものを、現実に創り出さなければならないのだよ。」

自然の中に本質があるが、普段は隠れている。「ひとかどのもの」は、精神を自然に近づけ、本質を現実にひっぱり出してこれる人という意味なのだろうか。

(DAY 8) 人類としての真理はたえず説かれる必要がある。
ゲーテにとっては、その思想が誰のものであるとか、どこで身につけたとか、重要ではなく、そのような考えは俗物根性から抜け出ていないと説く。「我々が成長して行くのは、広い世界の数知れぬほどの影響のおかげであり、この世界から、自分にできるものや、自分にふさわしいものを身につけるからなのだ。、、、大事なことは、真実を愛する魂、真実を見出したらそれを摂取するだけの魂を持っていることだよ。」

真実、本質、真理を見つめること自体が「本質」である。また、ゲーテは「真理というものはたえず反復して取り上げなければならない。誤謬が、私たちのまわり(大衆によって)でたえず語られているからだ。」として真理が何度も説かれる理由を述べた。そのため「(ゲーテの精神、作品は、過去のどこかの時代の人間が)同じことを発見し、同じことを述べている。しかし、私も、またそれを発見し、再びそれを発表して、混迷した世界に真理の入って行く入り口を作ろうと努力したこと、これが私(脈々と受け継がれてきた偉大な人間)の功績なのだよ。」と話した。

真理が善だとすれば、誤謬は悪。どちらも存在するし、無くなることはない。だからひたすら善を求める心が必要だ。教養はそのための、養分となる。また、極端だが善と悪が社会構造であるとすれば、そのため教養というのは、「いつも決定的で純粋なもの、倫理的なものにだけそれを求めようとすることには警戒しなくてはいけない。およそ偉大なものはすべて、我々がそれに気づきさえすれば、必ず人間形成に役立つものだ。」と思考の偏り、柔軟性を持つことをゲーテは説いた。

(DAY 9) 悟性の限界と自然について
ゲーテは、詩人であるだけではなく、自然科学者としても活動していた。自然と向き合ったからこそ自然に敬意を表し、こう述べる。「しかし、自然は、決して状態というものを理解してくれない。自然は、常に真実であり、常に真面目であり、常に厳しいものだ。自然は常に正しく、もし過失や誤謬がありとすれば、真実で純粋な者だけに服従して、秘密を打ち明ける。悟性は、結局、自然には到達できないのだ。神性に触れるためには、人間は自分を最高の理性にまで高めるだけの力がなければだめだ。神性は、自然と倫理の根源現象の中に顕れている。神性は根源現象の中に潜んでいる。もともとそれは神性から出発しているのだ。」

根本現象とは「多種多様な結果が生じる原理ではなく、多種多様な根本現象のこと。(説明がつかない、自然なこと)人間が宇宙に触れるありとあらゆる感覚は、我々がたとえ困難であっても重要な天職を果たそうとすれば、(根本現象は)全く本来的に共働する筈だ。」とゲーテは説明する。天職とは英語でCalling。自然に触れようとすれば、自然がCallしてくれるという意味だろう。

ここで人間の悟性の限界があり、そこからは根本原理に身をまかせるしかない。いかなる哲学者でも前進させることはできない。ゲーテは、「カントは、、、人間の精神がどこまで到達できるか見定めて、解決できない問題には手をつけなかった。」としてカントの哲学の有益性を述べ、エッカーマンは「彼(ゲーテ)はスピノザの中に自分自身を見出し、そうしてまた、スピノザによってこの上なく見事に自己を確立できたのである。」とゲーテの自然への信仰について、説明した。

ゲーテは、根本原理は言葉では言い表せず、納得できる代物ではないという。エッカーマンは、「私たちが神と呼んでいる偉大な存在は、たんに人間の中だけではなく、、、自然にあらわれ、、、人間の手で作られた概念では間に合わないのも当然である。それで、注意深い深い人ならすぐに不完全さと矛盾に突き当たってしまい、その場かぎりの口実で自分をごまかしている小人物か、あるいはより高い見識の立場に達するほどの大人物でもないならば、懐疑に、いやそれどころか絶望に、陥ってしまうだろう。」と分析する。

「子供は、菓子屋がつくったことも知らずに、菓子を食べ、雀は、どうして熟したかも考えずに、桜んぼをついばんでいるではないか。」わたし達は、その永遠の法則にしたがっていると、エッカーマン(とゲーテ)は、語った。

つづく(下記、上巻、下巻のリンクです。)

ゲーテの人生塾に入門しました。 ゲーテとの対話 上巻

ゲーテの人生塾に入門しました。 ゲーテとの対話 下巻

2020/05/05


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