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気を抜けば、私たちは誰かにとっての銃となり病原菌となり鉄となるだろう。それらの危険性に関する考察。ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』との対話。

文字数:約3,650

育児というものは、想像以上に大変で、なかなかゆっくりとした自分の時間を割くことができなくなってしまった。本当は毎日(特に毎朝)、本を読んだり、noteに備忘録をしたためる作業を行いたいのだが、それもままならなくなってきている。とはいえ、時間は工夫すれば捻出できるはずだし、いまも隙間時間を見つけては(隣で赤ちゃんが目を覚まして、一人で遊んでいる風であるが、いつ呼び出しがかかるかと良い意味でそわそわしている)、ポツポツとここに記入しているのである。

育児の合間、ここ一ヶ月でジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』を読んだ。ベストセラーだし、ひろゆきもお勧めしていたし、ずっと読んでみようと思っていた本の一つである。次はいつ作業ができるかわからないので(育児の為)、サクッと備忘録をまとめようと思う。

書物と対峙した際、私が気をつけていることがある。それは本の内容をそっくりそのまま自分にインストールすることはしない、言い換えれば書物に記された言葉を鵜呑みにして、妄信することは止そう、という態度である。自分の言葉に落とし込まなければ、それらはGoogleの範疇を超えることはできないからである。

だから私は、ある人がベストセラーを読んでいないからといって、ベストセラーを読んだことがないその人を馬鹿にする人がいたとすれば、私はそのような人間を軽蔑したい。そもそも本の内容そのものなどは、ググればいくらでもそれらの要約記事を探すことができる。私が取り組みたいことは、そこに何が書かれているかという単なる事実ではなく、それらの思想をどのように私自身の思想に落とし込めるかに尽きる。

誰々よりも何々を知っている。確かにより多く知っているものの方が、より賢いようには見えがちだが、知識は万人に等しく共通のものであるがゆえに、実際には記憶力による優劣には、そこまで大きな意味は見出せない。それよりも知らないことを知ろうとする意欲の方が重要であるはずだし、知っていることそのものに自惚れない精神の方が肝要であるはずである。

知らないことについて、「知らないです」とはっきり言える方が、知ったかぶりをきめる態度よりも何十倍もましである。もし知っていれば、そっと控えめにそれらの情報を提示するだけで良い。私は私自身の中に、得意げに知識を披露したい欲望が隠れていることを肯定する。


さて、『銃・病原菌・鉄』に何を読み取ろうか。

事物に対する批判的態度。これを私はこの書物から学びたい。

『銃・病原菌・鉄』で語られる主張はある意味で清々しいほど一貫している。ジャレド・ダイアモンドは、この書物を執筆する理由について、以下のように述べている。

 民族によって歴史が異なる経路をたどったのは、民族間の生物学的差異の反映であると考えることは、一見、理にかなっているかに見える。もちろんわれわれは、そのようなことを人前で口にしてはいけないと教えられてきた。しかし、先天的な差異に言及する学術論文を目にしたり、そのような研究には技術的な間違いがあるという反論を読むこともある。数世紀も前に征服されたり奴隷化された人びとの子孫が、社会の最下層で暮らすのをわれわれはいまでも日常的に目にしている。これについても、生物学的な欠陥のせいではなく、社会が不平等で、機会が均等にあたえられていないせいだと教えられてきた。
 にもかかわらず、人びとのあいだには歴然と、こうしたちがいが存在している。それはなぜだろうか。われわれは、その理由を考えなくてはならない。われわれは、西暦一五〇〇年の時点の人類社会の差異を、生物学的に説明しようとすることは間違いであると確信している。しかし、正しい説明を知らされているわけではない。大半の人々は、人類社会の歴史に見られる大きなパターンについて、詳細かつ説得力があり、納得できる説明を手にするまでは、相変わらず生物学的差異に根拠を求める人種差別的な説明を信じつづけるかもしれない。私が本書を執筆する最大の理由はここにある。

ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄 上巻』(草思社) 翻訳 倉骨 彰
プロローグ「人類史研究における重大な欠落」より引用

マジョリティーはマイノリティに対して、得意になりがちである。マジョリティーをマジョリティたらしめているのは生物学的に彼れが優れているからではない。彼らが住んでいる環境がたまたま彼らをマジョリティとしているのであり、根本的に人類は平等である。

ジャレド・ダイアモンドは、一つの仮説を検証しているにすぎない。それが完全に正しいことであるとも、だから持てるものは持たざるものよりも偉いのだと言っているのでは全くない。持てるものが、なぜ持てるものとなったのか、その因果関係の一つの研究物、『銃・病原菌・鉄』とはそのような内容の書物である。

私はこの書物を読むこと自体に批判的態度を求めたい。まず、そもそもの前提条件について熟考すべきなのかもしれない。つまり、持てるものが持たざるものではなく持てるものである理由は、持てるものが生物学的に持たざるものよりも優れているからではなく(人種的差別の完全否定)、持てるものが持てるものたる所以は彼ら自身の環境が決めている可能性があるというジャレド・ダイアモンドの説の、持てるものの態度自体についての考察である。

『銃・病原菌・鉄』は、民族間の環境的差異を研究した書物であり、それ以上のことは語られていない。事実は事実であり、それは良い意味でも悪い意味でも、それ以上でもそれ以下でもない。それがどのようなカテゴリーの大きさであるかを問わず、持てるものはなぜ、持てるものであると自身をカテゴライズしてしまうのか。そのことについて、私たちは私たち自身の心に問いかけねばならない。

事実として、差別はなくなっていない。人種間の争いはなくなっていない。いじめはなくなっていない。人々は平等こそが正義であると声を荒げるが、この世界には不平等的考えは確実に存在している。それらは事実である。事実であるがゆえにそれらは事実であるのであって、そこに内在する因果の法則は、あまりにも複雑に絡まっており、それらを解きほぐすことは容易ではなく、むしろほとんど不可能だと私は思う。

しかし、平等と不平等という考えそのものに焦点を絞ったとき、それらは鮮明さを増すのである。要するに、それらは個々人の精神に内在するなんらかの主観なのである。持てるものが持てるものである所以、そもそも持てるものが自身を持てるものであると得意になること自体に問題は孕んでいるはずである。持てないものも然り(というと大勢の方から反感を買うのかもしれないが、それでも私は私のこの考えがより正しさに近しいものであると信じている)。

銃と病原菌と鉄を持っていたから、ある人々はある人々を征服でき、ある人々はある人々よりも「持てるもの」となった。そして銃と病原菌と鉄がある人々には有利に働き、ある人々には不利に働いた。その根本的要因は、その環境的違いに求められる。これがジャレド・ダイアモンドの研究の成果である。

私たちは何か、事実(知識)を知るとき、その背後に隠れる真理を探求せねばならない。「持てるもの」と「持たざるもの」という表現自体がそもそも誤っている。そのような読み方もできるはずだと私は思う。「民族間に横たわる"差異"は環境が決定していて、だから生物的差異による人種的差別は間違っているんだ」。確かに、そのような素直すぎる読解はミスリーディングなのかもしれない。

固定観念というものは、意識をしなければ固定観念であり続ける。逆に一旦意識をしてしまえば、もはや固定観念は固定観念ではなくなり、それは可変的なものへと変容するとも言える。提示された命題に対して、その命題が正しいものであるかどうかを検証せずして、それらの判断に自らの考えを付け加える行為は、もしかすると固定観念のいたずらに過ぎないのかもしれない。

例えば、どうすれば(日本の社会において)格差を無くすことができるのかという議題に対して、そもそもの前提を疑う成田悠輔のようなクリティカルな態度が参考になりそうだ。


批判的態度がなければ、私たちの固定観念はそれらの意見に固執し、なんらかの意見に固執するがゆえに、私たちの感情はそこから逸脱する出来事に対して反応してしまう。なんらかの事実や情報に対して、感情が自然と反応するとき、私たちは私たち自身の主観こそを疑うべきだ。それらは人間の感情が狙い通りに反応するように巧妙に仕組まれた時計じかけなのかもしれない。

ジャレド・ダイアモンドは淡々と事実を述べているだけであり、決して感情的ではない。それらに感情を付与するのは私たち自身の責任である。

もっとも警戒すべきは、自分自身であると改めて感じるのである。

2024/02/15 

PS:『銃・病原菌・鉄』のアバタローによる解説が素敵で私は気に入っています。


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