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「論破」とは致命的な行為の端緒であることについて。プラトン『国家』との対話。

文字数:約5,020

毎度唐突で申し訳ないが、今はプラトンの『国家』に取り組んでいる。副題は「正義とは何か」。ここでは『国家』の内容自体の概要をまとめることはしない。(幾度も同じようなことを書いているような気はするが)それには時間がかかるし、ググればいくらでもこの手の要約記事は見つけられるはずだし、それに何よりも、この備忘録では私自身の書物への所感とそれらをどのように咀嚼し反芻するのかを考えたいからである。

「正義とはなんだろうか?」という問いかけは非常に難解である。難解だ、というのはそれを決めつけること自体が非常に難しいという意味で難解なのだ。正義の反対はなんだろう?現代社会においては、それは悪ではなく、また別の正義であることが多い。もちろん絶対的なる視点によって正義を見つめることもできるが、それらは平和なこの社会においては(少なくともこの日本社会においては)、極論となることの方が多い。

たとえば他人を害すること(もっと踏み込んで露骨な言い方をすれば人を殺すことについて)は、私の意見では絶対悪であり、それ以外ではありえない。いや、私の意見というよりも私の直感的に、自らの思考よりもはるか上空に位置する星々がそれは悪だと告げているようにも思う。私は正義を相対化することで戦争を肯定するような、そのようなデーモン的判断は絶対にしたくはない。

しかし現実問題として戦争はなくなっていないし、戦争をする当事者にも言い分はあるだろう。彼らには彼らなりの正義があり、それらを貫き通すために人を殺す。そして、それもまた彼らの正義のありかたであり、彼らの社会においてはそれが正しいことであると賞賛される。こちらが動かなければ、こちらがやられてしまう。そのような場合には敵をこの世から抹消しても自らを守ることが正しいことなのか、あるいはそれでも殺生は悪いことであり続けるのか。

とここまで書いてきて、私はこの手の話題からは手を引こうと思う。これらを考えること自体がいまいましいからである。これらは思考実験ではあるが(この平和な世界から呑気に眺めるのであれば、そしていつまでもそうあることを切に願う)、それにしてはあまりにも私自身の精神的消耗が極度に激しく、早くここから逃げ出したい。ということで、私は極論については思考を止めようと思う。たとえ、それが逃亡だとしても私は構わない。精神的自傷行為は決して勧められるものではないと私の直感が私に告げるから。

ところで、こののんびりとした平和な日本社会において、正義に思いをはせること自体が特殊なことなのかもしれない。普通に生活をしていれば、日常にはいろいろな忙事が発生するし、いちいち立ち止まって自分自身を省察する時間を取ることもなかなか難しいことなのかもしれないし、あるいは自分自身を振り返ること自体を思いつかないのかもしれない。私はここに読書とnoteの可能性を(ほぼ)確信している。

なぜなら、私たちは私たちの感情をあまりにも神聖化しすぎているからである。あるいはそれらに自動的かつ機械的に反応しすぎている。悲しいから悲しいし、嬉しいから嬉しい、辛いから辛いし、怖いから怖い、楽しいから楽しいのだし、気持ちいいから気持ちいい。それはその通りなのだが、私たちはこれらの一次的なる心の反応に重きを置きすぎているように私には思われるのだ。

感情に素直になりすぎると私たちの意見は正しいか誤っているかの二者択一に陥る可能性が極めて高いと私は分析している。絶対的なる意見というものは私たちの感情を大きく揺らす。私たちは私たちこそが正しいのだと思いたいのだし、それが故にそこに絶対性を付与したい人間的な傾向性があるはずである。あるいはその逆もあり得る。つまり何の疑問もなく絶対性を教え込まれた人間は、それこそが正しいものであり、正しい場合には自身の感情はなんともないが、誤っている場合には自身の感情は大きく揺れることになるのである。

これはこうだという決めつけ、他者との対話において感情的になるのはおうおうにしてこのような断定的な意見である。これらは成熟した大人にはあまり相応しくないと私は直感する。たとえば、「論破」という言葉が流行っている(ように私は思う)が、これらもその背景にある感情を眺めてみるとその現象とその問題点とをより鮮明に把握することができそうだ。

なぜ「論破」を"したがる"のか?それは文字通り"したがる"からにほかならない。他者を論破したいからこそ、他者を論破するのである。ではなぜそれらをしたがる傾向性があるのか?それは自己の正当性を確認したいからである。自分は正しいのだと思いたい気持ちは、自己の安心感につながる。「僕は(私は)間違っていないんだ」、そのようなフレーズは他者に向かっているようでいて、実際には自分が自分に対して無理やりに言い聞かせているにすぎない。

人は自分の意見が間違っているとは容易には思いたくないとしたものである(その意見に自らの感情を乗せてしまっている場合において)。換言すれば、私たちは私たち自身をそんなに容易には否定したくはないのである。すでにこの時点において、私たちは私たちの意見に断定的ニュアンスを付与してしまっている。要するにそれらは論破するか、あるいは論破されるかの極度に簡素な二項対立論へと陥っているのである。

論破をされた側は、もし彼らが論破をする側と同じ感情論(論破をするに至る道筋自体はロジカルなのかもしれないが、それの前提が感情にあるという意味で私は感情的なる断定的意見はすべからく感情論であると呼びたい)にひれ伏しているのであれば、論破をされた側は唇を噛みしめるほど悔しい思いに支配されることだろう。そして、論破をする側はもうすでに感情論に浸りきってしまっているので、彼らは言うまでもなく快楽を得るのである。

しかしながら、自らの意見を純客観的にニュートラルに保っている場合には、論破する側の意見が正しさに近いのだと論理の力に頼って推し量ることができるのであれば論破する側はより正しいと判断するのだし、逆に論破する側の論理性に矛盾が見えるのであればそれらを解決すべく対話を進めるだけのことである。つまりは、言われる側の人間が感情論から勇敢にも耐えている場合においては、他者から論破をされようがされまいが、それらはどちらでもよいことなのである。なぜなら、彼らにとってはそのどちらもが正解であり得るし、不正解であり得るからである。

と、このような「論破」を「論破」するようなロジックを「論破」と呼びたいのであればそう呼べばよいのだし、そう呼ぶ必要がなければそう呼ばなければよいだけの話なのである。何かの意見に対して、それらを「論破」するかどうかということはそれらの事象に対する本質からはかけ離れてしまっているように私には感じられて仕方がない。問題はそこではないのである。

では、問題はどこにあるのか?私の考えでは、この視点が現代の平和な社会で生きる私たちの北極星となり得る。つまり、問題はそれらの事象が正しいか間違っているということにあるのではなく、私たち自身の思考にあるのである。「問題」ではなく、「本質」と言い換えた方が掴みやすいかもしれない。物事の善と悪、それら「本質」とは私たち自身の思考そのものであると私は分析している。

プラトンも(ソクラテスも)、彼の『国家』において「正義とは何か」という副題が付いていながら、実際にはそれらが具体的になんであるかという断定的な定義はしていない。

いや、幸福なる諸君よ、さしあたっていまのところは、〈善〉とはそれ自体としてそもそも何であるかということは、わきへのけておくことにしよう。なぜなら、それをとにかくぼくが何であると思うかということだけでも、そこまで到達するのは、現在の調子でぼくの力に余ることのように思えるからだ。そのかわり、〈善〉の子供にあたると思われるもので、〈善〉に最もよく似ているように見えるものを、もし諸君もそれでよいと思うなら、語ることにしたいのだ。だが、それではだめだということなら、やめておこう。

プラトン『国家(下)』(岩波文庫) 翻訳 藤沢令夫 第六巻より引用

私の考えでは(でも)これらは決めるけることはできないし、そうすべきではない事柄だと思う。私たちはこの甘すぎる蜜に吸い寄せられるように、何だかとても強大で権威あるものが自らに備え付けられたかのように、壮大な勘違いをしがちである。「これこれが善であり正義である」、それに近しい場所までは因果律の世界が運んでくれるが、私たちの思考はそこまでなのかもしれない。ここはら先は宗教論へとつながっていくのかとも思う。

自らの思考で、限りなく善に近づくために、限りなく正義に近づくために、私はこの地点において読書とその備忘録の意義を見いだしたい。

善とは何か、正義とは何か。

私の考えでは、それらを考えること自体が善であり正義である。善とは何かとそれらに思いをはせる時点ですでにその人は善いはずだし、正義についても然り。もちろんそこにはいろいろな善と正義の姿形がある。あの人にとっての善はこのような形をしていて、また別の人にとっての善はそれとは別の形をしている。それらを最終的に照らす太陽がどのようなものであれ、太陽とは何かと考えること自体に思いをはせることができる人々がこの平和な日本社会にどれだけいるのだろう。

倫理というものはこの社会ではすでにそれらは成熟したものとして、避けられがちである。哲学というものはこの社会では不要なものであるとして、その言葉を聞いただけでネガティブな印象を与える。フィロソフィーと言えば、多少それらのニュアンスがマイルドになるのは、私たちの生活している社会において「哲学とは無意味かつ意味不明」という「哲学」という響きに対する固定観念がどこからともなく吹き込まれているからである。

驚いたことに「哲学が何の役にも立たない」とはプラトンの『国家』でも述べられているのだ。これらが書かれたのは紀元前400年くらい前なのだから。ちなみにどの書物に書かれていたのかは忘れたが、同じくギリシャのどこかの書物で、「最近の若者はなっとらん」みたいな内容が記されていてとても洒落にならない。歴史的事実が人類とは普遍的にそのようなものであると証明しているようである。

洞窟に写し出された影は私たちの思い込みそのものである。哲学(あるいは倫理など何とでも言葉を変えてもよい)の意義はここにある。思い込みとは私たちの感情を良い意味でも悪い意味でも揺さぶる。だが、その地点に留まっていてはとても健全なる対話はできやしない。それらはソクラテスが目指したような対話ではなく、一方的な我の押し付け合いにすぎない。

我の押し付け合いである限り、そこには争いは絶えない。なぜなら、もはや彼らの世界においては勝つか負けるかを私たちの自動機械的な精神反応が追い求めるからである。だから、カール・ヒルティ(19世紀スイスの哲学者・神学者)は考える人が増えれば世界は限りなく平和になる、というようなことを述べたのだ。

考えるとは何か、それらを考えることこそが考えることなのかもしれない。同じように善や幸福に思いをはせること自体に善や幸福の本質が隠されているように私には思えてならない。そしてそれらを決定的なものであると断定したがる私たち自身の感情もそこには必ず存在するのである。

読書とは自分自身の対話とも表現することができるだろう。また読書するだけでもよいが、より客観的に自己の感情を把握するためには、特に私は書くことをお勧めしたい。書くことによる自らの思考の整理には精神の浄化作用がある。プラトンは『国家』で哲人王こそが国を治めるべきであると全体主義や社会主義の起源のような、ある意味では非常に危険な思想を述べていたが、少なくとも私たち個人を一つの国家と見立てれば、そこには哲人王を君臨させるべきなのかもしれないと私も思う。

もし何らかの言動に対して私たちの心や感情が反応するとき、私たちは最も用心すべきである。勇気を出してじっと口を閉じていれば、私たちの内なる独裁者は哲人王へと昇華されるのだ。ここから先は、対話と対話との美しい永遠なる繰り返しである。

2023/12/17 


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