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感情に言葉を奪われる前に。プラトン『ゴルギアス』との対話。

文字数:約6,050

本を読み終えたら、それっきりにするのはもったいない。その時の自身の感情、思考等々を何らかの形で残しておきたい。そのためにこのnoteを記している。だが、ここ一ヶ月くらい、私はどうもそれらを重荷に感じてしまっているようだ。

これは自身の環境が急激に変化したからかもしれない。というのは、昨年末から育児をしていて、あまりまとまった時間が取れなくなってしまったからだ。かれこれ一ヶ月以上、この白紙のページに記しては消し、記しては消しを繰り返している。

次の読書がしたいのだが、いかんせん自身のnoteが足枷となっていて、「まずは前回読んだ本について何でもよいので備忘録に記せ」と自分が自分に命令口調で話しかけるものだから、なんとかかんとか簡潔に今回の読書録をまとめてみようと思う。

最近読んだ本はプラトンの『ゴルギアス』だ。その前はプラトンの『国家』に取り組んでいた。また、『ゴルギアス』を読む前には、田中美知太郎の『ソフィスト』と納富信留の『ソフィストとは誰か』を読んだ(ただし、『ソフィスト』と『ソフィストとは誰か』は割と学術的で過去の文献研究的であり、それらの箇所を飛ばしてざっと読んだだけだから、これらは私の恣意的な備忘録には残すべきではないと思う)。


では早速だが、私が『ゴルギアス』に読み取った、あるいは読み取りたいと思っている知恵は、私たちの感情と私たちの言葉との関係性である。人はなぜ饒舌になるのか?意気揚揚と得意げに話すのか?それらは感情が主な原因だと私は考える。とある現象に対して私たちの感情は反応し、各々の印象が生み出される。

小中学生の間で有名(過去形かもしれない。私は最近の小中学生業界には疎いので)な「それってあなたの感想ですよね?」というひろゆきのセリフは、それらを発する方も発せられる方もどちらもが、それぞれがそれぞれの印象のままを声に出してしまったが為である。しかし、反応としての感情や、そこから派生する印象そのものは問題ではない。むしろそれらは自然なものであり、それらを否定することは人間のなせる技ではない。

問題は感情を感情のまま、印象を印象のまま、声に出してしまうことである。感情や印象には自己批判はできない。なぜなら、それらは自然に発生するものであり、自然に発生するということはそれらに思考力は備わっていない。思考力が備わっていなければ、とある物事の批評はできない。したがって感情や印象はそれらの感情や印象自体に固執する性質がある。

自然に発生した反応は、各自の意見ではなく、それらは単なる反応にすぎない。それらは反応であり、したがって他者からの批評に耐えられるようにはできていないし、むしろそれらは単なる反応であるが故に、論理的思考の領域である批判とはそもそも異なる性質を持つのである。だが、私を含め、私たちの多くは、感情即意見に結びつけたがる。これこそが問題である。

納富信留の『ソフィストとは誰か』には、これらの現代社会が抱える問題について、以下のように述べていた。

(中略)「自分がそう思えば、それでよい」という、一人の思われに閉じこもる態度が、個人主義として蔓延している。「気持いい/気持わるい」という即時的な快楽に依存する立場は、他者との対話を拒絶し、独りよがりの生き方に引きこもらせる。そこでは、言葉の彩が生み出す豊かな感情世界は、文学と共に失われる。他方で、快楽をもたらすさまざまな力、たとえば、経済力や権力への無批判の信奉が生み出される。現代の消費社会とコマーシャリズムは、ゴルギアス弁論術を信奉する若者カリクレスの「快楽主義」を、まざまざと想起させる(プラトン『ゴルギアス』第三部)。

納富信留『ソフィストとは誰か』(ちくま学芸文庫)
序章「ソフィストへの挑戦」五「ソフィストの現代」より引用

論理的思考なき、感情に任せた意見は「他者との対話を拒絶」するものである。それはもはや対話ではなく、強制的な押し付けの一種である。なぜなら、それらの言説では、すでに正解が決まっているからである。正解とはつまり、それらの言説を表明した人々の感情であり、自然に発生する反応である。

繰り返すが、このような意見の形をした言説は、他者からの厳しい批判には耐えられる性質をもともと持っていない。そのような耐久力がないが故に、これらの言説の発信者は、他者からの批判を受けるたびに反発をしてしまうのである。そしてさらに悪いことに、それらの反発も、単なる感情的反応である場合が多いのである。

感情と意見を取り違えた言説が発する声は強烈である。なぜなら、そこには正義は一つしか存在しないが故に、それらの正義に分類されない他者をいとも簡単に切り捨てるからである。論理が争う場であるはずの会話が、単なる感情の押し付け合いになってしまっているわけだ。私の考えでは、それらは会話でもなんでもない。終わりのなき争いである。

そして強調すべきは、感情を感情のまま声に出すことはとても気持ちがよいことなのだ。試しに何らかの現象に関して、自身の印象のみの力を用いて何らかの言葉を他者に向かって、あるいは匿名の誰かに向かって発信しようとしてみてほしい(とはいえ、それらを実行することはよしてほしい)。それらは非常に気持ちがよく、その言葉尻はとてもきつい(中には極めて汚い口調となることもあるだろう)はずである。

本来、感情は討論の場所には向いていない。討論の結果云々についての感情はあり得るが、討論の内容については感情には仕事は割り振られていない。だが、実際にはどうだろう。私生活においても仕事においても、討論や対話の場所には感情がはびこっているではないか。

これはメディアの影響も大いにあると私は思う。メディアは、大多数の意見を一般化した意見として表明することが多い。これは楽しい、これは悲しい、等々。権力ある者が、その支配下にある者へ押し付けるように、メディアは本来各個人にユニークに備わっているべき感情を一般化して報道しがちである。そして、そこには同調圧力なるものが発生し(なぜなら感情は批判には耐えられないが、同調には迎合しがちだからである)、そこに同調できない反応が現れた人間のうち、それらの反応を生のまま世間に公表してしまう未熟な者たちは、周りの人間から批判の対象となるのである。

これらの問題について、田中美知太郎は『ソフィスト』の中でこう述べている。

プラトンの厳しい理想主義的要求の前には、当時の国家社会の政治も文化も一切がとうてい吟味に堪えうるものではなかったのである。しかも事情は今日でも違ってはいない。われわれはさきにソピステースの徳育や弁論術が、べつにわれわれから軽蔑されたり、嘲笑されたりするようなものではないことを述べた。無智はかれらだけのことではなく、むしろわれわれにおいていっそう暗黒だからである。誇張された言葉で正邪善悪を云々する声は天下にみちみちているけれども、われわれはそれが何であるかを深く考えたことはないのである。

田中美知太郎『ソフィスト』(講談社学術文庫) 
第九章 悪名の由来より引用

「誇張された言葉で正邪善悪を云々する声」とは、権力者による感情論に基づく意見に近いニュアンスである。それらは感情論であるが故に批評の対象とはならない。そして、そのような感情論の刷り込みは、もともと別の反応を示していた人間の反応をも、権力者が示す何らかの別の感情にすり替えることに成功し、そのような方向性を配下の人間に付与することにも成功する。そのほうが権力者は民を支配しやすいからである。そして、思い込みを付与された人間は「それが何であるかを深く考え」ることに思い至らないのである。

だが、私の考えでは、これらもまた極端な意見なのである。なぜなら、それらもまた「あなたは考えが足りない」といった自分勝手な他者判断であり、思い込みや見栄っ張りな虚栄心が言葉を支えているからである。要するに、そのように他者を勝手にそうであると判断する行為は、「それってあなたの感想ですよね?」と未成熟な小中学生が意気揚々と声に出すくらいにはそれ自体が「感想」(=感情)にほかならないのであって、その論理はいとも簡単に崩されるのである。

とはいえ、私という一人称にぎゅっと視点を絞ったとき、私は確かに私の中に、感情で物事を判断したがる傾向性があることを知るのである。他人の反応がどうなのかはわからない(しかし知ろうとすることはできるし、そのような他者理解への努力はするべきである)が、少なくとも私は沸々と心が煮えたぎり、その強い力に任せて言葉を発したい意欲にかられることを否定できない。


ではどうすればよいか?

私はここに『ゴルギアス』を読む意義を見出したい。私たちの言葉は、外に出ないうちはそれらは自身の内なる声として反響するのみである。しかしながら、それらが一旦外の世界に表明されれば、それらには社会性が付与される。社会性が付与されるということは、そこには他者との対話の隙間が生まれてきて、他者に対する何らかの影響力も生まれてくる。

言葉とはむやみやたらに、自身が思っていることをなんでもかんでも声に出してよいものではない。もし仮に人間が何らかの科学技術の向上で、他者の考えていることを全て把握することができるようなれば、そのような世界はディストピアと呼ばずになんと呼ぼうか。

私たちの言説には社会性があり、他者に対して何らかの影響力を持つ以上、それらの言説に対する責任を私たちは取らねばならない。それの言説を支えている根拠が、単に感情的であろうが論理的であろうが、それらの言説に社会性が付与された時点においては、もはやどちらでもよいことである。言説は単に言説として、社会に公表されるからである。

匿名性はこれらの社会性をぼやかす性質を持つ。故に、インターネットで罵詈雑言が絶えないのはこのためであると私は考える。面と向かってなんらかの言葉を発するとき、それらの言葉には社会性と他者への影響力が付与されるので、それらの言葉に対する何らかの責任がそれらの言葉を発した者には課せられる。

だから、普通私たちはSNSが炎上する時に見かけるような言葉どもを、オフラインの世界で使うことは少ないのである。匿名性は言葉に対する責任を取り除く(もし仮にこれらが厳格な検閲対象であると知れば、勇気に溢れる革命家以外は、誰も文句は言えなくなる)。しかし、言葉に対する責任がないということは、それらは一体誰の言葉というのだろう?それらが単に気持ちよくなる為だけの感情の発露だとしても、それらは一体誰の感情なのだろう?

私の考えでは、匿名による誹謗中傷はみな自己からの逃避にすぎない。逆に実名のある誹謗中傷に関して、私たちの感情は即反発的反応を示しがちであるが、そのような感情的反応は抑え込まなければならない。たとえ彼らが感情論的にそれらの誹謗中傷を発してきていたとしても、それらは彼ら自身の言説として、彼ら自身の責任として私たちに影響力を持つが、私たちは私たちの責任を持ってそれらと真摯に向き合わなければならないからである。

実名の方による批判には、何らかの理由があり、それらは多くの場合、非常にためになることばかりである。今時、足りていない自分に対して、「あなたは何々が足りていないよ」と示してくれる方々は貴重なのである。足りていないものは、充足させねばならない。それがより正しい生き方であると私は思うから。

『ゴルギアス』の中でソクラテスもこう言っている。

ぼくは思うのだが、ぼくたちはみな、ぼくたちが話している問題について、何が真実であり、何が虚偽であるのかを、熱心に知ろうと努めなければならない。だって、それがあきらかになることは、ぼくたち全員にとっての共通の善なのだからね。そういうわけだから、ぼくは自分が正しいと思うとおりに議論を進めさせてもらうけれども、もしきみたちのなかに、ぼくが自分に与える同意に正しくないところがあると思う者がいたら、ぼくをつかまえて反論しなければならない。じっさい、ぼくだって、自分が言っていることを、十分にわかっているわけではないのだよ。そうではなくて、ぼくは、きみたちとともに探求するつもりなのだ。だから、ぼくに反論するひとの言うことに一理あると判明したら、ぼくがまっ先に賛成したいと思う。

プラトン『ゴルギアス』(光文社古典新訳文庫) 翻訳 中澤 務
第三幕「カリクレス」ソクラテスの台詞より引用


ひろゆきの「それってあなたの感想ですよね?」が小中学生の間で流行ったのは、小中学生はまだ未成熟であるが為である。そのような感情的な言葉は、成熟した者には不適切と言わねばならない。実際、ひろゆきもこのように述べている。

最初に言っておきますが、実生活で論破は役立ちません。職場でも学校でも何か集団があれば、おかしな意見が通ったり、そのせいで理不尽な思いをしたりして、モヤっとすることは、誰にでもあります。その気持ちはわかるんですけど、そんな時にむやみに勝とうとしても、勝ち負け以前に意味がありません。だって、かりにあなたが相手を打ち負かしたからといって、それってあなたが一瞬気持ちよくなるだけですよね。結局、相手が心の底から納得していなければ、実際のところ何も変わらないし、ただただ関係が険悪になって、かえってよくない事態を招いてしまいます。(中略)僕も「勝ちたい」などと思って会話しているわけではありません。「論破王」と言われたりしますが、実生活の場では「言い負けている」ように見えることだって、たくさんあると思います。でも、表面的に口で勝とうが負けようが、どうだっていいことです。大切なのは「その会話において本当に大切なのは何か」ということを、自分でちゃんと見極められているかどうかなんです。

ひろゆき『ひろゆきさん、そこまで強く出られない自分に負けない話し方を教えてください!』
(サンマーク出版)はじめに 「僕が日常生活では議論で勝とうとしない理由」より引用

「その会話において本当に大切なのは何か」を知ろうとする態度は、『ゴルギアス』でソクラテスが示した態度と等しい。私たちの言葉には責任が伴うということを意識すれば、私たちはもっとやさしくなれるはずである。そのような意味では、やさしさとは感情に基づくものではなく、理性に基づくものであると言える。

なぜなら、感情は発する言葉を選べないが、理性は発する言葉を選べるからである。つまり感情では責任は取れないが、理性は責任を取ることができるからである。

私たちは感情に言葉を支配される前に、「何がより正しいのか」について、ぐっと饒舌を我慢し、黙考しなければならない。

PS:ゴルギアスの外観説明はアバタローさんのYoutubeが私は好きです。

2024/01/16


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