【OUのネタバレ含む】作品を読むということ

OUの感想かレビューを書きたい

OUをプレイし終わって、なんとも言えない気持ちになった。でも、それを言葉に変換するのが難しい。題材それ自体はものすごく興味のあること(後述)だったのだが、一通り見ただけではフワフワしていて空をつかむような感じがある。

作品のメッセージをより具体的に読み取ろうと思うと、記憶が薄れた頃にじっくりプレイし直すか、スクリーンショットを見返してみる必要がある。

さらに悪いことに、「知っているのと知らないとでは物語の解釈に大きく変わってきそうな情報」がゲーム外に散らばっているようなのだ。
(※下書きを温めている間に、作者がXのポストを削除したためリンク切れを起こしています。あえてそのまま公開します。)

1つ目は、この雑誌「ニンテンドリーム」の収録漫画と特集記事。

作者曰くクリア後の閲覧推奨とのこと(リンク切れ)。気になるけれど、どうしてもゲームと別に手に入れる努力をしなければならないことが面倒だと感じてしまう。

2つ目はこちら。作中に出てくる世界「ウクロニア」の元ネタとなった概念に関する論文。

16ページなのでサクッと読めなくはないのだけれど、なんとなくそういう気分になれず。
何かを強く思えるほど、きちんと読めているわけではない。そんな未消化の状態で、これらの情報を見るのもどうなのだろうとも思い、手を出せずにいる。

以前プレイしたHello Goodboyの時も思ったが、ゲームの外に物語の解釈が変わるような情報や知識があるような作品は、こうした面倒がある。
その面倒を上回る魅力のある物語を展開できるかどうか、プレイヤーにもっと知りたいという気持ちを持たせることができるかどうか。
Hello Goodboyの場合は、心理学的な記号がさりげなく散りばめられていたが、たまたま自分の知識と、調べればすぐに分かる内容でカバーできた(たぶん)。
しかし今回は、マンガの方はゲーム外のコンテンツという形で販売されており、他の経路からは知りえない情報なので、まずは「入手する」という点が重要になる。

そうした点も含めて、作品のテーマの一部に、なんとなく「思うところ」があって、それをなんとか言葉にしたいという気持ちがある。しかし、全体的な読みが浅い状態で、どのように書いていけばよいだろうか。
遠回りをしながら、ちょっとずつまとめていこう。

哲学者でさえ曲解する

大学時代に哲学の講義を受けた時に、『純粋理性批判』で有名なカント哲学のさわりをうっすら聞いた。
ヒュームという哲学者の主張を受けて書かれている部分があったのだが、先生が「これはカントが読んだヒュームの話である」ということを強調していたのが印象深かった。

なぜこの話を思い出したかというと、今『暇と退屈の倫理学』という本を気が向いた時にちまちま読んでいて、その中にこんな記述があったからである。

この本の中の「疎外」という言葉の解説のくだりで、ハンナ・アーレントという思想家が、マルクスの主張を誤読し文言を変えて(改ざんして)引用しているという指摘があった。
彼女の信念が解釈に影響し、マルクスの本当の主張を誤認したまま議論を進めようとしたということらしい。

哲学書を全文まともに読めたためしがない自分としては、この記述の正誤は分からない。また、この記述もまた「筆者が読んだマルクスとハンナ・アーレント」である可能性が排除できない。(なんならこの文章も「私が読んだ『暇と退屈の倫理学』内のハンナ・アーレント」である。)
これが、引用の引用である「孫引き」が望ましくないとされる理由でもある。

こうした事例は、書籍であるので原典をあたることである程度、引用の背景や筆者の認識を考えることができる。それでも、特に宗教書や哲学書の場合は解釈によって派閥のようなものができたり、「注釈書の注釈書」のようなものが出版されたりすることがある。例えば『純粋理性批判』のセルフ解説書である『プロレゴメナ』の解説をする哲学の入門書のようなものである。

印象と解釈の集積である「ウクロニア」

読書をする時、一言一句の意味をもれなく検討しながら読むということを大半の人はしていないだろう。気になったり印象に残ったり、選別が無意識のうちに頭の中で行われている。頭の中に取り込まれる部分とそうでない部分はどうしても出てきてしまう。

この無意識の選別はどのように行われているのだろう。
先のハンナアーレントのように、信念や信条といったものも影響するのかもしれない。あるいはそうした高尚なものではないにしても、何かしらの価値観を無意識のうちに反映しながら読んでいるのかもしれない。

例えば、人に作品の内容を伝える際は、頭の中に残ったものをもとにレビューや感想を発信することになる。誰にとって何が頭に残ったか。頭に残ったものを、その人がどのように解釈したか。
そうした文章には、なんとなくその人の価値観や人生史が現れているように感じることがある。他者の感想やレビューを見る醍醐味でもある。

無意識を検証することは困難だ。しかし、少なくともOUにおいては、この無意識をベースに作中のウクロニアという世界が成り立っている。

ただ、ウクロニアの世界が同じ物語を咀嚼した人々による集合的無意識のようなものなのか、それとも1人の人間の頭の中の話なのかが読み取れなかった。
付箋に描かれた原典の物語とは関係がなさそうな散文、ビートルズを思わせるハリネズミ、ピクニックの描写、そしてメキシコの作者が著した原典の物語にアクセスできる環境にあること。材料はあるがバラバラで今一つ輪郭を描けない。
付箋の言葉は先ほどの例で言う「注釈書の注釈書」のようなものの一部が切り離されたものなのかもしれない。

咀嚼し解釈を得る過程で削ぎ落されるもの

ウクロニアの世界には「サウダージゴースト」と呼ばれる生き物がいて、こいつに食われたものは忘却の彼方へと飛ばされてしまい、二度と戻れなくなってしまう。
ウクロニアの世界は頭の中に残ったものの集積である。だから、忘却の彼方に放棄されるということは、印象が薄れ、解釈の材料から除外され、削ぎ落されてしまうことを意味するのだろう。

例えば、特定の登場人物をひいきする(あるいは「推す」)あまりに、作者の意図を超えた解釈をしたり、一部の描写を無視したりする。
あるいは、欲望の赴くままに解釈し二次創作の原動力とすることもある。

あるいは自分自身の人生経験を基に感情移入したり、時には欲求不満に対する防衛機制として、投影や昇華に用いたりもする。

そのようなことを考えると、この作品における「ウクロニア」はあまりにも美しすぎるのではないだろうか。読みたいものを読んで、好き勝手に解釈したものが、本当にこのような美しさを持つのだろうか。
あるいは美しくあってほしいという願望や信条によって描かれているのかもしれない。だから「児童文学のような世界観」が必要だったのかもしれない。

そして、このように物語を取り込み頭の中で組み立てる一方で、いったんは受け取ったけれど無視されたもの、自分にとって心地よくないもの、不都合なものがどんどんサウダージゴーストに呑まれていく。

削ぎ落されたものは、再度、原典に触れて取り込み直さなければ戻ってこない。

作者と読者の関わり

物語を頭の中に取り込み、無意識のうちに頭の中に取り込むものを選別してしまう過程は、ノンフィクションの場合、大きな危険をはらんでいる。
これまで述べてきた哲学者の事例のように議論の方向性が恣意的に変えられてしまう場合がある。筆者の意図しない解釈が繰り返し拡散していくと、それが正典であるかのように広がってしまう可能性がある。解釈が多様化するうちに、解釈の範疇を超えて伝言ゲームのように話が変わってしまうことさえある。
正確に伝えることに重点が置かれるノンフィクションは、「不特定多数を広く対象とすること」と「正確に意図を伝えること」の両面から媒体を選び、必要に応じて誤った解釈を正したり、自身の表現を見直して訂正を出したりする。

一方でフィクションの場合、作者の視点を想像するに、おそらく正確性以上に美しさや楽しさを届けることが重視されるのだろう。
サリーのセリフとOUの正体から、OUの主題は作者と読者のつながりを作品が媒介することの美しさにあると、私は解釈した。
誰が受け取ってくれるか分からない状態で作品を発表し、作品という解釈を要する媒体で、手探りでつながりを持つこと。
物語の輪郭や設定など、「必要最低限伝わっていなければならないこと」はある。しかし、そのすべてについて必ずしも答え合わせをする必要はない。
作者は自分の作品がどのように解釈されるかを楽しみ、読者は作品から自由に想像をして、それぞれの頭の中にウクロニアを構築しながら楽しむ。

よい読者・わるい読者

そこで問題になってくるのは、作者自身による作品解説に読者はどこまで付き合うべきか。また、「必要最低限伝わっていなければならないこと」のラインをどこに設定して、どのように答え合わせをするべきなのだろうか。そのために、何にどこまで手間とお金をかけるべきなのだろうか。
加えて、作者と読者は作品の受け渡し以外の手段でつながってよいのだろうか、とも思ってしまう。

先に言及したニンテンドリームのマンガはどうなのだろう。
作者の言葉を信じるならば、本編の解釈や印象に大きな影響を与える内容である。そうした重要な情報を、ゲームとは別売りのオプション品として販売することの意義とは何であろうか。読み手と物語の間で生まれた世界で展開される物語なら、解釈に影響する重大な情報をあえてゲームとは別媒体にすることに何か意味があるような気がする。

正直に言えば、雑誌の購入を億劫だと思っている間にこんなに時間が経ってしまった。物語は魅力的でなかったわけでは決してなく、むしろ雑誌の入手という手間が世間で思われている以上に、自分にはハードルが高かったということだと思う。

得られる情報をすべて得ず、全回収せずに(トゥルーまでは見たけど、全回収かどうかは分からない)、それでも何か語りたいと思うこと。それは不誠実な読者の逃げなのだろうか。
あるいはノンフィクションを読む時のような慎重な読み方は、フィクションにおいては求められていないという事実に甘えてよいものだろうか。
私の場合は幾分か逃げが入っているのかもしれないなぁ。

この小説を読んでいて、OUのことを思い出した

この小説を読んで、OUのこの言葉を思い出した。

なにかと
だれかの
あいだで

誰が受け取ってくれるか分からない状態で、作品を発表することの意義。
読者と作者が、作品のみを通じて、つながる。
答え合わせのためのコミュニケーションが取れない謎と向き合うこと。
受け取った物語が次の自分の物語を生み出すこと。

やっぱり、作品の感想を語るために別の作品を出すのは不誠実であろうか。それでも、作品のテーマが微妙につながっているような気がしたので、なんとなく触れておきたかった。

そんな自己満足な文章なので、この辺で。

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