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短文学集

25
筋も思想も体系も、全部気にせず楽しむことを短文学と称して日々の感傷を綴る。
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#山

忍び泣き

忍び泣き

 その日は大きめの低気圧がやって来ていて、予報通り空は一日中暗い雲に覆われていた。数時間に一度、雨風が窓を強く揺らしては去っていくのを、私はずっと布団の中で聞いていた。
 昔から空模様と体調が比例してしまう体質で、せっかくの休日に何も出来ないまま。それもあと四時間ほどで終わってしまう、という頃になってようやく布団から抜け出し、せめて空っぽの冷蔵庫をどうにかしなければ、と遅めの買い出しに出かけること

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緑の波

緑の波

「やあ、このようなところへ人が見えるとは」
 愛想の良い初老ほどの男が、いつの間にやら私の脇に立ってこちらを見ていた。いくら川の音がするとはいえ、歩く音が聞こえないほど夢中になっていたつもりはない。自然、向ける目線には警戒の色が混ざったろう。
「これは失礼した。物思いに耽っていて気がつかなかった。この辺りにお住まいの方かな」
 向き直って見ると、男は白髪の混じった皺の深い顔をしており、膝丈ほどもあ

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底徊

底徊

 どこやらで烏が鳴いた。頭上を黒い影が幾つか、西を目指して行くのが見えた。その後を追う温度の無い風の背を捕まえて、枯葉や蛾などが逃れるように西へ流れていく。
 空が、呑まれていく。あれほど天を焦がしていた夕日の、その下に瓦を輝かせていた人家の、休耕田の僭主たる叢たちの、その全ての色彩を抜き去るほどの暗い夜がやってくるのが見える。
 随分待ったものだ。空の果てに、その影を見つけた時からもう数時間が経

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代替品

代替品

 長雨の下から出て傘を畳むと、頭上の山門が作る軒の下に水滴が落ちて黒いシミを作っていった。耳に染みついていたビニールの膜に雫が弾ける音がようやく遠のき、遠く山野を濡らす音が辺りに満ちている。傘を柱に立て掛けると腰掛け、鞄からライターと、久しく箱を開けてすらいなかった煙草を取り出した。
 ジーパン越しに湿気が伝わる。腕の産毛の先まで満遍なく包んだ湿気が、煙草まで達していないかが気がかかりだった。もた

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