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生きてきたご褒美を受け取る準備



晴れた日、力を抜いてぼーーっと過ごしていたら、隣で一緒にいた人が「今まで生きてきたご褒美みたい」「お互いよくここまで生きてきたよね」と笑った。
それを見て私はこっそり泣いてしまった。

大学2年の、誰にも相談できずに失踪したあの時の自分に教えてあげたいと思った。「生きていたらこんな日が来たよ」と。
でも、あの時の自分は誰に何を言われても素直に聞けなかった。体と心に分厚い蓋があった。未来の自分からメッセージが来ても心に届かなかったと思う。だから、最後は自分で自分を踏みとどまるしかない。それしか自分を救う道はない。

そのギリギリで自分を踏みとどまる理由はたくさんの小さな積み重ねだったりする。
その人にとって、何が踏みとどまる理由になるかは誰にもわからない。だから、なんでもいいから大切だと思ったことは伝えたい。バカみたいに笑った時間は何度でもしつこく反芻したい。
今日も誰かが自分を踏みとどまるといい。

きっと誰もが「踏みとどまるかどうかを選ぶ日」がくる。
その可能性を私はいつも考える。

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森山直太朗さんのライブツアー『素晴らしい世界』に行った。
以前から森山直太朗さんの歌が好きだった。彼はいつも彼としてずっと存在していくものだと疑わなかった。だからまた自分が消えたいと思ったり、彼が活動の方向性を変えたり、コロナ禍になったりして無常をまたひとつゆっくりと理解して、漠然とした「ライブに行かなきゃ」という感情が湧いた。
それは漠然と心のナナメ横にあって、ある日カチッと心の中心に来たので私はチケットを買った。

アルバム『素晴らしい世界』は好きな曲がたくさんある。特に『boku』は確実に生活を彩る一部になった。晴れた日の運転も、スーパーを歩く際も、休日のメイク時間も、脳内で(時折脳内を飛び出て口で)口ずさむとその日一日軽やかに生きていけそうな、心地よくて色褪せない錯覚をくれる。
でも、聞いた時に文字通り頭を殴られたような衝撃を受けたのは表題曲の『素晴らしい世界』だった。

定期的に、「眠れそうにない夜」がくる。
それは私にとって自然なことで、むしろその眠れそうにない夜が来たことを無視しようとすると調子が悪くなる。眠れそうにない夜を認めてあげることが大切なのだ。最近やっとわかった。
眠れそうにない夜に『素晴らしい世界』を聞く。この曲を聞くことが、眠れそうにない自分のことを認めてあげることになる。すると眠れそうにない夜と少し仲良く過ごすことができる。
慰めでもない、寄り添いでもない、味方でも癒やしでもない、ぴったりな言葉が見つからないけれど「自分を許す柔らかさ」と「自分に気づく衝撃」を同時にくれる曲だった。

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実は今回のライブは2回行った。
1回目は昨年の冬の兵庫県、2回目は地元愛知県の公演に行った。(※一番上の写真は愛知芸術劇場。公演前、舞台の撮影はOKとのアナウンスがありました)
1回目に行った公演のMCで「弾き語りのアルバムを出すことになりました。販売はライブ会場のみです。」という内容のお知らせをコミカルに受けて、絶対にほしいと思ったのでまんまと再びチケットを買った。

初めて『素晴らしい世界』のライブアレンジバージョンを聞いた時の震えは、今でも覚えている。

『素晴らしい世界』を歌う前、森山さんがMCで話してくれた。自身がコロナになり、40℃の熱が10日間続いた。肺炎で息がずっと苦しかった。何日も悪夢を見た。まさに死の淵にいた。その後少しずつ回復していった。
開けた窓から風が入り、カーテンを揺らした。外から園児たちの笑い声が聞こえた。涙が出た。久しぶりに排泄ができた。涙が出た。ただ生きているという、それだけに涙が出た。不思議な体験だった、と。
素晴らしい世界を、遠くに、人に、スマホの中に、ここではないどこかに求めていたけれど、自分の中にあった。もうすでにここにあったんだと実感したからできた曲です。そう話した後に、舞台を照らす照明が消えて曲が始まった。

私は2回目のライブで『素晴らしい世界』を聞きながら、なぜか大学2年の失踪した時のことを思い出していた。

家族や友人にとっての思い出の土地では死にたくない。誰の思い入れもない、遠い地に行きたかった。新幹線の路線図を見て、端っこの博多行きの切符を買った。
やるならば、自分で自分をナイフで刺すと決めていた。動脈を確実にいきたい。手首か首だろうとぼんやり思った。100均で果物ナイフを買った。
誰かの生活となるべく関わりのない場所で死にたかった。博多駅から夜通し歩くと、人通りの少ない川沿いを見つけた。ここにしようと思った。

夜中、人通りが少なくなる時間に川沿いに来た。冷たいコンクリートに座ってiPodで音楽を聞いた。ナイフを取り出して自分の皮膚に当てた。やり損じてはいけない。ひとおもいにやらなくては。心は静かだった。
どれだけの時間そうしていたのかわからない。少しも動かず、ナイフを皮膚に押し当てたままぼんやりした思考回路で私はずっと家族と友達のことを考えていた。家族と友達のことしか考えられなかった。川を流れる水の音だけが聞こえていた。コンクリートから伝わる冷たさが手足を冷やした。気づくと、あたりが少しずつ明るくなってきた。朝の気配がした。遠くで、通勤の人の足音がし始めた。私はナイフをバッグにしまった。

私は、私にナイフを刺せなかった。
あんなに消えたいと思っていたのに、刺せなかった。
自分が消えればいつか全てがうまく行くとあんなに信じていたのに、刺せなかった。
その事実が衝撃だった。そして「死ねないのなら、こんな自分でも生きていくしかないのか」という絶望が、私を生かした。

ライブで『素晴らしい世界』のサビに差し掛かった瞬間、すとん、とわかったことがあった。
なぜ自分で自分を殺してはいけないのか。
自分の中に体温があるからだ。
自分の中に、体温があるからナイフでその中を刺してはいけないんだ。
木や川や土を傷つけて汚すと、森や海や土壌が傷ついて汚れて、植物も動物も人間も傷ついて汚れる。
そのしくみが外だけでなく、体の中にもある。
体温を宿した体を傷つけるということは、自然界を破壊したり宇宙を汚すことと同じなんだ。
この体は自分のものではなくて、ただの自然の一部だから。

…………一生懸命言葉にするとこんな感じの、本当は言葉にならない不思議な感覚がすとん、と体に落ちてきた。
だからか。だからナイフで自分を刺しちゃいけないんだ。
死にたいと言う人に、「どうして自分で死んじゃいけないの」と聞かれたらなんと答えたらいいのか。それは私自身も知りたい疑問だった。
だから自分を刺しちゃいけないんだ。曲の途中で突然そう思えた時、私は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。マスクが濡れるといけないと思いマスクをこっそり外した。舞台いっぱいのスクリーンに、自然や人の映像が映っては消える。すごい情報量で音楽が体と心に入ってくる。森山さんの歌声は壮大な音楽を底上げしてこちらに投げかけてくる。受け止めるこちらは声が漏れないようにするのが精一杯だ。涙が顔の輪郭からぽたぽたっと落ちた。

感情がめちゃくちゃになった私を残して、ライブは次の楽しいゾーンへの導入を始めた。数分後、私はニッコニコで立ち上がって手拍子をすることになる。
森山さん自身も仰っていたが、めちゃくちゃいい意味でとても情緒不安定なライブだった。

早く帰れるようにと、ライブ前の物販タイムにお目当ての弾き語りアルバム『原画』は購入済みだった。なのにライブ後にどうしてもと思い、会場で『素晴らしい世界』のアルバムも買った。ダウンロードやYouTubeで聞くだけでは埋められない気持ちが会場で昇華された。来月趣味で使えるお金は消えたが、気持ちは満ちていた。

帰り道、「今まで生きてきたご褒美みたい」と言ってくれたあの人に用事もないのに電話をした。仕事で少し気分が落ちていたタイミングだったらしく、突然の意味のない電話に「ほっこりした」と笑ってくれた。

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もう「死にたい」とは思わないけれど、「消えたい」と思う夜はやってくる。もう皮膚を刺すためにナイフを買うことはなくても、消えたい夜がやってきたらあの手この手でごまかして仲良く暮らす日々だ。

もういい加減、自分を許そうと思う。
人に迷惑をかけることを、間違えることを、不甲斐ないことを、人より汗をかかないと同じことができないことを。

これからの私に必要なのは、「生きてきたご褒美を受け取る準備」だ。
ご褒美を受け取る準備をしておかないと、ご褒美だと気づかない。
準備ができていたら、晴れた日に、力を抜いてぼーーっとしながら「今まで生きてきたご褒美みたい」「お互いよくここまで生きてきたよね」と
私が、私や誰かに笑える日が、きっとやってくる。

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眠れない夜に

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