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藤田好三郎氏の社会観と豊島園 ~日本の風景と教育へのアツい思い~

 発起人の岡田です。
 前回は豊島園の生みの親、藤田好三郎氏の半生を紹介させていただきました。

 今回はその後編で、藤田好三郎氏はその生涯の中で何を考え、どういった思いで豊島園を作ったのか、それを紐解いていきたいと思います。
 前回と同様、当時の政治経済誌を読み解いていくと、彼は主に3つの社会観を持っている事が分かります。

それは
 ①「趣味や娯楽の推奨」
 ②「外国人観光客の誘致による外貨獲得」
 ③「優秀な人材の育成」

です。

 それらは現代とも通じる、極めて時代を先取りした価値観から来る主張でした。そして豊島園開園もその思想が少なからず反映されています。
 今回は藤田好三郎氏の社会観を当時文部大臣だった勝田主計氏と対談した「事業之日本」1928年10号の記事を中心として読み解いていきます。

藤田好三郎氏が考える「趣味や娯楽の推奨」

 藤田氏と勝田文相の対談は「昭和3年8月25日。降るかと思えば晴れ、晴れるかと思えば振り出す蒸し暑い日の午後1時~3時の間」、永田町の「文部大臣官邸」で行われたと書かれています。
 対談が始まるや否や、藤田氏はまず勝田文相に自身の考える「趣味や娯楽の推奨」について語りだすのです。

藤田 尾崎君!僕のことは豫て(かねて)申し上げてあるだらうね・・・
尾崎(記者) 申し上げてあります。
藤田 私は大川平三郎、田中榮八郎両氏の下で色々な仕事を致してをりますので、本業を非常に忙しく働いてをります。然し人間には趣味とか娯楽とか言ふものがなくては活動力が出てくるものではありません。そこで私は平素から人間の娯楽と言ったやうな事に就いて色々と考へてをりますが、趣味は第一に高尚であつて、第二衆と共に樂しめて、さうして第三には経濟的であると言ふこの三の條件を具備してゐる事を望みます。

 いきなり趣味娯楽の話を始めた藤田氏ですが、その娯楽とは一般にイメージする「エンターテイメント」的な意味とは少し違う印象を受けます。何故ならば「高尚」という条件を含んでいるからです。
 では藤田氏の考える娯楽とはどんなものなのでしょうか。

 現代社會の煩雑なる仕事をして行くには、こうして一方自然に親しんで英氣を養ふ必要のある事を痛感します。現在日本には立派な自然が澤山ありますが、然し交通不便の爲めに一般民衆をしてこれに接する機會を與へる(与える)事ができないのであります。又日本の現在の名勝なるものを見ると、同じ道を往復してをりますが、これを通り抜けにするとか、巡廻せしむるとかする事ができたならば、同じ時間と同じ費用を使つて如何に多くの行樂を得る事ができるか判らないのであります。

 上記からも分かる通り、娯楽とは観光、特に自然に親しむ事であるという事が分かります。そしてそれを実現するためには交通に課題があると考えており、藤田氏は自ら手掛けていた事業でそれを解決しようとしていた事が分かります。

 先ず日光より申し上げますると、今日、日光に行く人、大抵中禪寺には登るやうですが、戦場ヶ原を越えて湯本に行く人は少い、況やこれより奥に至つては尚更であります。日光は、奥へ行く程自然が大きく、景色が良いのです。
(中略)この山林を通ること約四里にして東小川に出で、これより武尊山赤城山その他越後、上州の山々を展望しながら、七里びして沼田達します。これを自動車で通り抜さしたいと考へてをります。此事だけを考へれば非常に難事でありますが、菅沼、丸沼を利用して私達が發電事業を計劃してをりますので、比較的樂に出來ます。
文相 それは結構です・・・してその紅葉はどう言ふ種類の植物ですか。
藤田 落葉松(からまつ)、楓、橅、ナナカマドその他針潤混淆で、紅、黄靑交互に錯綜して、正に綴れの錦を展開したもので、何れの色も鮮明で眩い位であります。

 この藤田氏の構想は、調べると実現している事が分かります。
 まず菅沼と丸池を利用した発電事業とは「一ノ瀬発電所丸沼ダム」であり、昭和3年(1928年)に着工され昭和6年(1931年)に完成しています。この計画を立てたのは「上毛電力」、つまり大川財閥の企業なのです。
 一ノ瀬発電所丸沼ダムの堤体は現在もあり、「大規模かつ技術的完成度の高い構造物であり、近代鉄筋コンクリート造河川構造物の一つの技術的到達点を示すものとして重要である。」という評価を受け、なんと国の重要文化財に指定されています。

 そして、日光から丸沼ダムを経て沼田へ達するルートについては国道120号線として開通しています。少なくともこの道路の鎌田~丸沼間については、ダムの工事のための専用道路として昭和3年(1928年)に造られたものでした(尾瀬保護財団より)。

  このルートは現在「日本ロマンチック街道」と呼ばれ観光スポットとなっています。

 対談の3年後の昭和6年(1931年)に国立公園法が交布、施行され、昭和9年(1934年)に日光一帯は国立公園に指定されます。現在、日光の歴史に藤田好三郎氏の名前は残っていませんが、日光が国立公園に指定される事に尽力した一人が藤田好三郎氏であったのは間違いないと言えるでしょう。

藤田好三郎氏が考えた外国人観光客誘致とは

 藤田好三郎氏は現代に先駆けて外国人観光客の誘致による外貨獲得、つまりインバウンドに着目していました。それは決してお金をかけてレジャー開発をするのではなく、風景をを利用して外国人を呼び込もうというものでした。
 再び、勝田文相との対談から引用します。

藤田 大きく言ふと日本は風景國であり、この風景を利用して世界の遊覧客を呼び寄せたならかなりの外貨を受入れることができます。この意味於て、獨りの趣味でなく、立派な國益の事業となると思ひます。日光の如きは正にこの目的に添ふと信じます。斯く論じ來つたなれば、これは本業としてやつて宜いかも知れません。
文相 外國では既に國立公園もあるが、自國の風景には既に嫌らず(あきたらず)思つてゐる。不幸にして我が國に今日まで斯くの如き遠大なる計劃が實現せられなかつたのだが、今君の説を伺って大いに共鳴すべき點があります。

 この外国人観光客の誘致は、外貨獲得という目的ありきの主張ではなく、「風景国」という発言の通り、藤田好三郎氏がとにかく日本の風景を評価していた事から来る主張だったと思われます。それは「実業の世界」1929年5号の「風景を開發し盛んに勸光外人を誘引せよ 三四千蔓圓の外資を吸収するのは容易だ」という記事からも読み取る事ができます。

 風景の點に於いては寧ろ欧州よりも日本が優れて居る。之にチョイと人工を加へれば、一層価値が高まり、毎年多数の勸光外人を誘引するは易々たる事である。
 日本は産業的天恵に乏しいが風景には大いに恵まれてゐる。此の恵まれたる風景を閑却して、之を大いに利用しやうとせぬのは、甚だ迂闊な事ではあるまいか。
 然らば風景の改善とは何を意味するかといふに、一つはホテルの建設で、もう一つは風景を開發して系統的に遊覧せしむるやうにする事である。
(中略)私の腹案としては、先づ東京を中心として、一方は日光方面の風景系統を作り、一方は富士、箱根、熱海を連絡する風景系統を作るのである。

 この記事でも日光の観光系統については勝田文相の対談時と同様に熱く述べた後、これも自らの事業を通して一部実行に移している事を書いています。

 尚ほ此の観光系統については着々計劃を進め、前述のケーブルカーは七月一日(1929年)から運転の豫定(予定)であり、中禪寺から上州への自動車道路も大に進捗してゐる。

 自動車道路は前述の国道120号線ですが、ケーブルカーについては調べると、「伊香保ケーブル鉄道」という路線があった事が分かります。運営会社は関東鋼索鉄道という会社ですが、これも大川財閥系だったようです。このケーブルカーは1962年に伊香保榛名有料道路が開通すると利用者が減少し、1966年に廃止され残念ながら現存はしませんが、奥日光の観光開発に事業を通して藤田氏が大きく貢献していた事は事実と言えるでしょう。


 現在、インバウンドについては新型コロナウィルスが収束するまでは下火となりそうですが、日本はもっと自然や伝統文化で欧米からも観光客を誘致できるという考え方は、近年元アナリストのデービッドアトキンソン氏が主張していて注目されています。

 しかし戦前のこの時代から藤田好三郎氏は主張していたという、その先見の明には本当に驚かされます。

 伊香保ケーブル鉄道については詳しくは「伊香保ケーブルカー鉄道廃線跡地における土木遺産と観光資源の可能性」という論文が土木学会に論文がありますのでご参照ください。ちなみにこの論文を書いたのは西武建設㈱で、縁を感じますね。

伊香保ケーブルカー鉄道廃線跡地における土木遺産と観光資源の可能性 (PDF)

藤田好三郎氏が考えた天才教育とは

 風景国の話の後、記者から藤田氏は「天才教育」の提唱者であると紹介され、文部大臣に対して自分の考えを主張しています。

尾崎(記者) 藤田さんは天才教育の主唱者であります。現に中等教育を終へた青年をその意味で養成してをられます。文相として最も価値ある話題ですが・・・
文相  それは面白い、一つ御高説を伺ひませう。
藤田  別に説を言ふ程の事もないのですが、とに角現在の教育方針、即ち猫も杓子も大学教育を受ける爲に大学へ入るといふ事は考えものであります。元来学問は大切でありますが、その實この學問を熱望しているものだけが學校に入るやうにすれば宜いので見栄や義理で学問するものではありません。然るに今日の日本の現状を見るに親は自分の體面(体面)上子弟を大学に送る、子弟は友人に対する見栄で大學に入学せん事を父兄に強ひ、眞に学問を熱望し、眞に学問をせしむる価値あるものが何程勉強してをりませうか。蓋し(けだし)暁の星の如きものと存じます。その結果は如何でせうか。最も活動力のある青年時代を空費するものが多い。その上毎月七、八十圓の学資を浪費してゐる。働かなくて使つてゐるのですから出入り非常な損失です而して(しかして)卒業したら何になるかと言ふと、何の職業にも就けない人が多いのであります。
(中略)天才教育でありますが、天才は國の寶(宝)なり、父兄の貧富貴賤を論ぜず、天才を教育して益々その天職を發揮せしめなければなりません。

 これは一見、極めて厳しい指摘に見えるかもしれませんが、要するに「人材こそが国の宝なんだから、学問を本当に学びたい人にしっかりと学ばせるべきだ。」というのがこの主張の本質です。そのため、学問に興味が無い人に大学に入らせるよりは、それよりも優秀な人を国が援助する仕組みを作るべきだと言っているのです。
 これらは現代の大学教育が抱える問題とも通ずるものがあると思います。実際に各方面で、「日本の大学は多すぎる」「日本の大学生は勉強しない」「日本の学力低下」といった指摘があります。また採用する側も大学卒を重視する一方で、何故か社会人になってから大学院等で学びなおす事にはMBA等を除けばネガティブな現状もあり、大学のあり方を問う声も上がっています。

 こういった視点は藤田好三郎氏が大変優秀でありながら、大学進学において金銭的に苦労した自身の経験に基づくものだと思われます。もし伊藤長次郎氏が支援をしていなければ、帝大を卒業する事が出来なかったかもしれなかったのです。

 藤田好三郎氏の主張の「必ずしも全ての人が大学に進学すべきでない」という点について、不平等であると受け止めてしまう人もいるかもしれません。しかし、そうではありません。「実業時代」1928年3号に藤田好三郎氏は「天才教育と財産一代制を論ず」という記事を掲載しており、そこにはこうあります。

 そこで私は先ず教育だけでも機會均等に行はなければならぬと言ふのだ。貧乏人であらうが、金持ちであらうが、國の教育と言ふ事だけは、絶體に平等に行ふ事の機会を興へねばならぬ。貧乏人だから勉強できぬ。金持ちだから勉強できる、と言うやふな事では不可んと思ふ。
(中略)天才は個人の祐(祐)でなくして社會の祐、更に國の祐である。社會國家の寶である。故に教育といふものは、總ての人間に貧富の差別なく、機會均等的に之を授け、大いに天才を發揮せしめねばならぬ。

 このように藤田氏の主張はあくまで教育の機会は平等に与えられるべきという前提がある上での、実力主義です。
 一方で親の財力で教育格差が生じる事を問題視しています。この随筆の中で藤田氏は、タイトルの通り「財産一代制」の主張、つまり親の財産を子供がそっくりそのまま受け継ぐことまで否定しています。金持ちの子供は遊んでいても大学に通えるという事を批判しているのです。
 これは経済界に於いて財閥、つまり一族経営が力を持っていた時代、且つ自分自身も結婚によって大川一族に加わった身である事を考えると、当時非常に尖った主張であったと思われます。

 もう一点、藤田氏は同随筆で、健康や体力の重要性を説いている事も紹介します。

 即ち、世の中に立つて行くのには、學問よりも健康と言ふ事が最も必要である。人格、健康を抜きにして、只頭の力だけで以て、之が最も適材であると言ふので、適材適所の一番上に持つて行つて宜いか、之を考へねばならぬ。

 健康的であり、機会は平等に与えられた前提での実力主義。自身も実力で這いあがってきた藤田氏の主張は現代日本に於いても多くの教育学者が参考にすべき主張かもしれません。

豊島園の開園にはどんな思いがあったか

 さて、そのような社会観を持った藤田好三郎氏が作った豊島園。
 一体豊島園を藤田氏はどのような思いで開業したかについても、勝田文相との対談の中で語っています。それは「風景国」の話に続けて、藤田氏の方からこう語っているのです。

藤田 尾崎君からも話したさうですが、今一つ私の趣味の仕事として現在経営してゐますのは豊島園でございます。彼處(あそこ)は最初遊園地にする考へはなかつたのですが、東京の近郊として珍しい地形の好い土地で、而も足利時代に於ける豊島氏の城趾でこれを私するは憚り多いことと考へまして、これを公開して所謂衆と共に楽しむ事に致しました。児童の爲には保健教養場所とし、一般民衆の爲めには趣味生活をなす材料を與へたいといふ希望を以て諸般の設備を加へました。開圓未だ二ケ月にしかなりませんが、この節では非常に多数の入圓があります。
文相 ハハァ、さやうですかまだ其處へ行つてゐませんが、幾坪位の土地を擁しておりますか。
藤田 約六萬坪あります。色々な設備をしてをりますが、この秋から教材園を造りまして、小學校の教科書の中にある植物を移植して、實物教育を致したいと思つてをります。そうしてどうしても栽植できないもの、例えば高山植物のやうなものは圖畫(図画)に依ってでも現したいと言う計劃を立ててをります。
文相 イヤ!寔(まこと)に良い所に気が着かれてゐる。元来都會の人達は君の理想の如く自然に親しむ機會が少いから、植物などに接せしむる事が必要であります。日本の草花の類は代表的なものとして菊、女郎花(オミナエシ)、桔梗など四、五種程度の名稱(名称)は誰でも知つてをりますが、その他のものは判つてゐない方が多い。

 ここにある通り、日本を風景国と主張していた藤田氏もこの土地を「地形の良い場所」と評価し、自身の社会観である「趣味や娯楽の推奨」と「優秀な人材の育成」に通ずる場を築こうとしたという事が分かります。
 もちろん、「天才教育」の場ではありませんがその前の段階、「教育の機会を均等に与える」という目的に対する手段が「児童の爲には保健教養場所とし」や、「學校の教科書の中にある植物を移植して、實物教育を致したい」であると考えられます。
 大人たちには趣味や娯楽として、自然に親しんで英気を養って欲しかったのでしょうし、子供たちには遊びを通して体力をつけるとともに、身近な事から学んで欲しかったのでしょう。

 実物教育という考え方は、戸野琢磨先生の「古城の塔」の設計意図の中の、

又學生達其他の人にでも外國の一部を想像さしめたり、又これを観賞さしめる丈けでも良い教育と思う。

 という考え方ともリンクしているように思います。
 続けて藤田氏はこんな事を語っています。

 實は私共に親しくしてゐる日本橋の或問屋の相當年配の婦人が豊島園に参りまして、穂の出た麦を見てそれを指さして、これは何と言ふ花かと言つて訊ねました。一寸考へて見ても不思議な位ですが、知らない事は事實です。大切な自分達の食料品さへもその元を知らないと言ふのは寔に都會人の憐れさであります。

 自分たちが食べている物も知らない、これは現代の東京に住む私たちの大半も同じでしょう。こうした想いから、藤田好三郎氏は「古城の食堂」の料理に園内で採れた野菜を提供する事にしたのだと思われます。
 時代の流れとともに、藤田好三郎氏や戸野琢磨先生の思想は忘れ去られていくのですが、としまえんが閉園した今だからこそ、この想いについて再び深く考えたいものですね。

 最後に当時の藤田好三郎氏と豊島園に対する評価を紹介して、今回は終わりにしたいと思います。

 財界百人物 藤田好三郎君(日本公論 1926年1号)より
 君は又能く政治を談じ、思想を語り、世界思潮の傾向にも研究を怠らず、労資問題社會奉仕等に就て理解と識見を具へ(そなえ)てゐる傍ら、趣味性に富み、就中(なかんずく)庭園の趣味に至つては最も造詣深く練馬の豊島城址(練馬城址)を買収して大規模の庭園を経營し又日光の國立公園計劃も君が中心となつてゐるといふ人物典雅、風彩上品にして好箇の大實業家として推稱(推称)することが出來る。

 藤田好三郎氏の生き方は、自分たちの仕事観、人生観なども考えさせられますね。

 豊島園94年の歴史を振り返り、としまえんの何を伝えていくか、練馬城址公園をどんな公園にしたいかの一つの参考になれば幸いです。


引き続き、キャンペーンへの応援よろしくお願い致します!


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