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 としまえんは元々「練馬城址豊島園」といい、実業家藤田好三郎氏が家族のための静養地として購入した土地を庭園として開放したのがはじまり、というのはとしまえん閉園後、よく知られる話となってきましたが、この初代オーナーの藤田好三郎氏とはどんな人物だったのでしょうか。
 インターネットで検索しても「豊島園の初代オーナー」ということと、「旧安田楠雄邸と庭園の元々の所有者」という事以外、あまり情報が出てきません。

 しかし、藤田好三郎氏についての資料を収集すると、彼が40代の頃である大正13年(1924年)から昭和4年(1929年)の間に、「日本公論」「事業之日本」「実業の日本」「実業の世界」「実業時代」といった当時の政治・経済誌に頻繁に登場していたことが分かります。雑誌に掲載されている彼の役職は樺太工業専務取締役。樺太工業とは当時存在した大川財閥の中核を成していた企業の一つです。

 1928年には「実業の日本」の「財界閨閥五十人」、1929年の「実業の世界」では「財界十傑」に選ばれており、

 人格見識並備はる経営上手の男だから、老ひたる大川田中両氏に代わつてさらに腕を示すべき人物(実業の世界 財界十傑より)

と評されるなど、当時非常に注目された人物であった事が分かります。

 そこで、今回は藤田好三郎氏の人物像とその人生について紹介します。

出生から上京まで

 藤田好三郎氏の1920年代までの半生について知る事は難しくありません。なぜならば、

「藤田好三郎君 大川田中内閣の名翰長とご噂の高い」財界の名士とはこんなもの第一集(事業と人物社)
「昇進の早い人 藤田好三郎氏」実業の日本 1925年11月(実業の日本社)
「財界百人物 藤田好三郎君」日本公論1926年1号(日本公論社)
「大川内閣が出現したら差し詰め外務大臣たる可き 藤田好三郎君の人物」事業之日本1927年12号(事業之日本社)

上記の通り、藤田氏は1920年代に各書籍や雑誌において、上記タイトルで特集されていたからです。
 ちなみに「翰長(かんちょう)」という言葉は今は聞きなれないですが、戦前の日本の内閣にあった役職で、今の官房長官にあたります。当時は財閥を内閣に例える事があったようで、大川財閥を内閣に例えると、藤田氏は官房長官か外務大臣のように、社内的にも対外的にも能力を発揮していた人物だったという事でしょう。

 その出生についてはどの雑誌にも紹介されていますが、日本公論から引用すると、

 君は兵庫懸明石群大久保村の人先考長左衛門氏の三男として明治十四年三月を以て生まれた。生家は播州三木の城主別所小四郎の末流にして、祖先代々明石群平野村に居住してゐたが、後ち、別れて大久保村に移住したのだといふ。

 この住所は調べると現在明石市大久保町という地名になっており、明石市の西側、瀬戸内海に面する土地であることが分かります。

 そんな兵庫県出身の藤田氏が上京したのは旧制中学五年の時とあるので16歳頃の事のようですが、その経緯が非常に変わっています。

神戸一中の第一回の生徒で、在學時代は一校の模範生として、學問、操行ともに他の範となつてゐたものだが、氏の中学四年の時に、或教師が非常に不公平であるといふので、生徒の間に之を排斥する企があつた。しかしこの排斥は成績優秀の氏に何等の關係もなかつたが、是非とも氏が加わつて呉れないと目的を達し難いからといふ生徒間の懇望から大将に惜された。元来侠気に富んでゐた氏は、この時もち前の侠気を出してよしとそれを引受けた。そして徹頭徹頭、自分がその首魁となつて排斥運動をやつた爲めに、四年一學期を終わつたところで、放校處分になつてのあである。
(中略)
氏はまた此の時も奮然として自ら立つて自分に運動し、譯もなく復校が許されたが、喧嘩したあとで面白くないといふところから、間もなく東京に出て、上野清氏の東京中學の五年に編入試験を受けて入學し、翌年一高の入学試験にも首尾よくパッスした。

 なんと、生徒に対して不公平な教師を追い出す動きが生徒にあった際に、成績優秀で模範生徒だった藤田氏はそのまとめ役に担ぎ出され、本人も引受けたというのです。その結果、学校から退学処分を受けてしまいましたが、その時も自分自身でそれに反対する運動を展開した結果復学を認められたものの、そんな学校での生活は面白くないということで東京の中学に編入した、という事です。
 優秀さはもちろん、その行動力も15、16歳の時点で凄まじかった事が分かるエピソードですね。

帝国大学を出て日銀へ入行した後、三十八銀行へ 

 その後旧帝国大学(現在の東京大学)を卒業し、日本銀行に入行するのですが、4年で三十八銀行という銀行に転職をしています。
 三十八銀行とは兵庫県に本社を置いていた銀行で、後に他7つの銀行と合併して神戸銀行となり、この神戸銀行は三井住友銀行の前身の一つです。
 同じ銀行とは言え、なぜわざわざ日本銀行を辞めてまで民間の銀行に転職をしたのか、それについてもあちこちで書かれているのですが、ここでは「事業之日本」の文章を紹介します。

 明治四十年に帝大仏法科を出て直ちに日銀入をしたが、學生時代に尠なからざる世話を蒙つた三十八銀行頭取伊藤長次郎氏に聘せられて同行の支配人の椅子を占めたのである。此の場合にして當時の藤田君にして見れば、日銀に勤務して居れば大いに未来のあることは火を見るよりも明らかだつたのだが、舊恩(旧恩)に報ゆる爲めに日銀を去り、三十八銀行に入つたのであつた、男子義に強く意気に感ずるの面目躍如たるものがある。

 ちなみに「仏法」科とは「ぶっぽう」ではなく、フランスの法学という意味です。
 伊藤長次郎氏とは兵庫県の大地主で藤田氏の8つ歳上の明治6年生まれ、三十八銀行の頭取というだけでなく、貴族院多額納税者議員に最年少で選出されたという経歴の持ち主で、wikipediaにもページがあります。

 藤田氏の生家は系図的にはしっかりとしていたものの、息子を大学に通わせるだけの財力は無かったようです。その原因の一つは藤田氏が中学を卒業した頃、藤田氏のお兄さんである長男が何かしらの事業で失敗し、学資を杜絶したと「実業の日本」には書かれていますが、その時期に同じ兵庫県の人物として彼を支援したのがこの伊藤長次郎氏だったのです。

 この日銀を辞めて三十八銀行に入ったエピソードは、藤田氏が日銀の中でも優秀で将来は出世する事は間違いないと目されていたということもあり、彼の人柄を象徴するエピソードとしてあちこちの本や雑誌等で紹介されています。

 元来君の生家はあまり豊かではなかつた。随つて當時三十八銀行の頭取でもあった伊藤長次郎氏かえあすくなからぬ世話を受けた。
 そして學校を卒業するや直ちに日本銀行に入り、居る事四年地位大いに進み同僚から未来の総裁を以て擬せられるに至った。
 ところがこの時恩人たる伊藤氏から、實は三十八銀行に支配人の椅子が空き然もこの際人材を求む事急であるのだ。前途ある君としてはいやなのは百も承知し切っているが僕を助けると思つて是非來て呉れまいかと頼まれた。
 未来の日銀総裁を夢見、かつ實現の可能性ある君としては、三十八銀行の支配人位では食足らぬは勿論、下手をやれば一生を棒に振らなければならぬ譯であるにも拘らず、舊恩に報ゆるはこの時と、直ちに快諾を輿へ同行に入った。
(中略)要するに君の人としての價値は、この『人情』の二字に歸するのである。

 ところでこの支配人という役職ですが、今でいうところの支店長のことのようです。それについては「実業の日本」に詳しく書かれています。

日銀に入つて、明治四十四年までは文書局に勤務してゐたのたが、偶々播州の大地主として有名な伊藤長次郎氏が、自己の経営せる三十八銀行の経営法が舊式(旧式)で困るからと言つて、氏に神戸支店長になつて呉れぬかとの交渉があった。三十八銀行は、本店は姫路にあるが、実際の仕事は神戸の視点でやつてゐるので、實際の仕事は神戸の視点でやつてゐるので、神戸の支店長といふは、取りも直さず三八の専務といふことになる譯である。

 いきなり銀行の支店長にヘッドハンティングされるというのも相当凄い話だと思いますが、それでもこの話が人情エピソードとして各誌で紹介されているのは、それだけ本来は日銀の総裁になるべき人物だと周囲から評価されていたという事でしょう。

結婚にまつわるエピソード

 藤田好三郎氏は日本銀行員時代の明治四十二年に田中栄八郎氏の長女、栄子さんと結婚をされています。この田中栄八郎氏は田中平右衛門という方の養子になられているので苗字は違いますが、大川財閥の大川平三郎氏の実の弟です。

 つまりこの結婚が後に大川財閥に迎えられるきっかけになるのですが、この田中氏との出会いについては、「実業の日本」にはこうあります。

 その時(三十八銀行入行時)既に氏は、大學時代の先生であり、且つ渋澤子爵の女婿で大川田中兄弟とも姻戚関係に常る穂積陳重博士の媒酌をもつて、明治四十二年、田中氏の女婿になつてゐたのであるが(以下略)

 穂積陳重博士は宇和島藩家臣の血筋で、日本最初の法学者の一人であり、奥様は渋沢栄一氏長女の歌子さんでした。

 なお、歌子さんの母親である千代さんは大川平三郎氏の母方の叔母であり、また大川氏の奥様の照子さんは渋沢栄一の庶子(本妻以外の女性との間にできた子)であったので、要するに渋沢栄一氏を通して大川家一族と穂積陳重博士は縁戚関係にあったということです。
 そして穂積陳重博士が大川一族に藤田好三郎氏を紹介したところ、田中栄八郎氏が藤田氏の人柄に惚れ込んだのが栄子さんとの結婚に至るきっかけらしいのですが、「財界の名士とはこんなもの」にはその経緯について詳しく書かれています。

 この女を夫人とする時には一つのエピソードがあった。それは田中君が君の才腕にすっかりほれ込んだ挙句、是非娘の養子に、と話を切り出したものだが、君には小ぬか三合持つたら何とやらの養子なそは眞つ平御免だ。殊に富豪の附馬に等しきこの縁談などは以ての外だとはねつけた。
 これにはさすがに事業王田中栄八郎君もギャフンと参つたが、そこはまた智慧のハチ切れる様にまはり廻つて居る君の事とて、忽ち(たちまち)或る方法を以て令嬢を藤田君の御眼にとまらせた。嬋妍(せんけん)花の如き令嬢をチラッと見た藤田君、これはまたゾッと吹き込む戀(恋)風だか何だか知らぬが、富豪の附馬などと力み反つて居た前言は即時取り消し、養子には行けぬが、嫁に貰ふ事なら・・・と妥協の意思を表明した。

 大川平三郎氏と渋沢栄一氏の血縁関係の複雑さからも分かるとおり、この時代は財界の著名人は著名人どうしで有力者に自分の娘を嫁がせるという事が行われていた時代でした。その中で、藤田氏も最初は田中氏が自らの家系に優秀な人材を招こうと、お婿さんとして養子に入れる事を画策し、結果それは失敗したようですが、藤田氏が娘に一目惚れさせる事には成功し、結婚に至ったというのは少しほっこりするエピソードですね。
 同時に、兵庫県のいわゆる庶民出身ながら財閥の一族に入るよう誘われたというのも彼がいかに秀でた人物であったか分かる話ですし、しかもその話を「そんなのは富豪の馬付き役と同じじゃないか」という理由で断った藤田氏の強気の交渉姿勢にも圧倒されます。
 こうして、藤田好三郎氏は大川一族と血縁関係を持ったわけですが、大川氏と田中氏がこれだけ優秀な男を自らの事業に参画させないわけがないのでした。

大川財閥の人となる 

 大川氏と血縁関係を持った後、先述の通り藤田氏は三十八銀行に勤めたわけですが、やはり大川氏と田中氏は大川財閥の最高幹部に彼を迎え入れようとします。
 その時の成り行きを「事業之日本」から引用します。

 其の後大正五年に大川田中事務所に移るに就いても、三十八銀行に入つた事情が事情である丈けに、藤田君の立場は頗る苦しいものがあつた。藤田君にして見れば、大川田中事務所から頻りに要請される、其れでなくとも勿論岳父兄弟の事業に参加せねばならなゐのは當然の義理合ひであるから、藤田君たるものも勢ひ決心の●※を堅めなければならなかつた。其處で伊藤頭取に具に事情を訴えた結果、君に劣らぬ後任者と云ふ注文附きで、漸く其の承諾を得るに至つた。其の後半ヶ年を掛かつて漸く同窓の先輩を推薦して責任を果し、其の上で三十八銀行を後にしたのである。
※文字が潰れて読めず

 この後任者については「実業の日本」によれば、浪速銀行神戸支店の支配人を勤めていた宇川雄太郎氏という方だったと書かれています。

 伊藤氏が提示した後任者の条件は当時はまだ少なかった大学出身で、且つ銀行業務の経験があり精通している人という事で非常に難しかったようですが、それを見つけるという責務も半年で無事に果たし、ついに藤田氏は大川財閥に加わる事になりました
 大川財閥での仕事ぶりは「実業の日本」に以下の通り書かれています。

 大川系に轉じて後の氏は、二ヶ月後には九州中央各製紙の監査役、樺太工業の監査役となつたが、これは監査役に缺員(欠員)があつたところから、名義をさうしただけで、事實は常務の如き仕事をしてゐたのである。現在氏の關係事業は、大川田中事務所、樺太工業、樺太汽船、上毛製紙、服部製作所、鳳城炭礦等の常務取締役、大榮商會社長、中央製紙の取締役、九州製紙の監査役等で、最近成立せる富士川電力にしても將に成立せんとしてゐる上毛電力にしても、皆氏がその中心となつて計劃(計画)し成立したものである。
 氏はその外、大川系の事業に對してはその計劃の總てに参與し、その遂行實現を擔當(担当)し、殆ど一身萬務に當るの概がある。

 ここにある通り、樺太工業専務というのはあくまで代表的な役職というだけで、実際には11を越える会社に関わっていた事が分かります。これは戦後GHQによる財閥解体後の現代に生きる我々世代にはなかなかイメージがつきにくいかもしれませんが、戦前の財閥とはこのように多くの企業の集合体であり、その財閥の幹部となった藤田氏は様々な業務に関与したわけです。
 一体どうやったらこれだけの業務を捌けるのか想像もつきませんが、

 氏は非常に早起きの人で、夏冬問わず五六時には必ず起床し、風呂に入り、七時頃から来客に接し、八時半には必ず事務所に出勤すること一日として狂つたことがない。その時刻までに自宅に訪問した客との話が片付かぬ時は、自動車に乗つけて會社にやつて来る。そして夕方、七時から八時の間に退出する。事務所にいる時分、文字通りの奮闘生活であることはいふまでもない。

「実業の日本」にはこうありますので、私たちもまずは規則正しい生活と早起きから見習いたいものですね。

藤田好三郎氏のその後

 このように財界に広く能力を認められ、さらなる活躍が期待されていた藤田好三郎氏ですが、現在同時代の人物たちに比べて知名度がそこまで高くありません。実際、当時の業界誌を見ても1930年代(昭和5年以降)になると、ピタリと登場しなくなります
 これについてはいくつか要因が考えられます。

 一つは豊島園を1931年(昭和6年)頃手放している事。
 元来普請道楽で、根津の邸宅をすぐに手放した藤田好三郎氏が豊島園もずっと経営するつもりがあったのかは分からないですが、初期の豊島園は経営的には上手く行かず、藤田好三郎氏自身もいくらかの借金を背負っていたのではないかと推察されます。残念ながらそれは藤田好三郎氏の輝かしい経歴において、汚点となってしまったのは事実でしょう。
 そして一つは樺太工業の経営悪化。1920年代は世界恐慌の時代ですが、樺太工業はその影響を受け、第一銀行にも融資を拒否される状況となり、1930年(昭和5年)に社債の償還難の危機に直面し、最終的に1933年(昭和8年)に王子製紙に合併されています
 そして最後の一つは1936年(昭和11年)に大川財閥を率いていた大川平三郎氏が死去したこと。これをきっかけとして大川財閥は終焉を迎えてしまうのです。

 世の中は諸行無常ですね。
 その後、藤田好三郎氏がどうなったのか、現状追うことが出来ていません。1930年代以降の藤田氏についてはこれからも調査をしていきますが、次回は藤田好三郎氏がどのような思いで豊島園を開園したかや、彼の日本社会の社会観について紹介していきます。

 引き続き、豊島園古城の塔の保全キャンペーンを宜しくお願いします。

※藤田好三郎氏の後年について新たにまとめました!(2022年4月25日追記)



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