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 前回の記事では豊島園の産みの親、藤田好三郎氏の社会観と豊島園に込めた想いを紹介しました。豊島園は藤田好三郎氏の崇高な理想と戸野琢磨先生の芸術的な設計がベースとなって産まれた存在であるという事は多くの方に知っていただけたのではないかと思います。

 ところが、この藤田氏がオーナーの豊島園は数年で幕を閉じる事となります。実は豊島園は借金の担保となって安田信託銀行の手に渡るのです。

 豊島園が担保流れとなった経緯が明記されたものは見つかっていませんが、恐らくは元々採算度外視だった豊島園の赤字が想定よりも大きかった事、そしてそれを所有し続けるだけの財力と余裕が藤田好三郎氏に無くなったからではないかと考えられます。
 藤田氏が専務を務めた樺太工業は昭和に入ると業績悪化を続け膨大な負債を抱えるようになってしまいます。昭和6年(1931年)には後ろ盾でもあった井上準之助氏(元大蔵大臣)、大川平三郎氏の親戚でもあった渋沢栄一氏が死去し、銀行の融資を受ける事も困難となり、最後は昭和8年(1933年)に王子製紙に吸収合併されてしまうのです。
 その後、大川平三郎氏は昭和11年(1936年)に死去して大川財閥は解体へ向かい、藤田好三郎氏も昭和18年(1943年)に亡くなったと伝わっています。

 豊島園を手放した後、藤田好三郎氏は経済誌等にも登場しなくなるので、1930年代の彼の細かい動向については現在のところ分かっていません。しかし氏の性格を考えると、大川一族の一人として、そして樺太工業の専務として、銀行への融資の交渉や、最終的には合併の交渉に尽力をしたのではないかと思われます。藤田氏のその後については分かり次第、紹介します。

※2022年4月25日追記 藤田好三郎氏のその後について分かったことを下記にまとめました。

 やはりどんなに素晴らしい理想を持った事業も、黒字を出さないと存続出来ないのが資本主義社会。藤田好三郎氏の手から離れた豊島園は、ある男の登場によって復活する事になるのです。


小川栄一氏、豊島園と出会う

 昭和十年のある日。
 私は戸沢専務に呼ばれて「豊島園の整理をするように・・・」と命ぜられた。
 今日でこそ”豊島園”といえば誰もが知っている遊園地だが、当初は大川、田中、藤田(好三郎)家といった大金持ちが、自分たちの子供かわいさと一族の誇りを示す場として、ソロバンを無視して作りあげたバカでかい庭園に過ぎなかった。
 それが不景気のドン底に会い、貸付金二十万円の担保流れになってしまったのである。
 安田としては、これを処分するについて、改めて大邸宅の分譲地にしようという計画であった。

 この乱暴な言い回しの文章は小川栄一氏という男が半生を振り返った自書、「わがフロンティア経営」(実日新書、1964年)という本の「豊島園社長となる」という章の冒頭です。
 そう、これが藤田好三郎氏が手放した豊島園を立て直す事となる小川栄一氏と豊島園の出会いなのですが、その印象たるや最悪ですね。「大金持ちが、自分たちの子供かわいさと一族の誇りを示す場として、ソロバンを無視して作りあげたバカでかい庭園」だなんて、藤田氏や戸野琢磨先生の理想や設計意図なんて知ったこっちゃない、と言わんばかりです。

 そして安田信託銀行は当時「分譲」する方向で考えていたと明確に書かれています。つまり、昭和十年に豊島園は閉園していたかもしれなかったのです。2006年に開催されたとしまえん80周年記念ポスター展によれば、安田信託銀行は一度豊島園を競売にも出したが買い手がつかず、結局安田信託銀行が自己落札した、という事もあったようです。
 小川栄一氏という人物については後で紹介するとして、小川氏が実際に見た豊島園の様子をを見ると、閉園・分譲という選択も仕方ないなという気がしてきます。

 さっそく、私が同園に乗り込んで見ると、十万坪の豊島園は文字通り荒れ果てていた。しかも園内の遊戯物から氷水の販売、ついには空きびんを拾う権利まで、東京の大親分佃政一家が占領していた。”佃政”一の子分、高橋熊次が、その差配をにぎっていたが、彼は眉間に大傷を持つ”大入道”だった。
(中略)年間にしてわずか三万人という来客数だから、従業員は給料ももらえず、うち三万坪の地主にも地代は払わないままであった。

 いわゆるやくざ者がうろつき、従業員の給料は払えず、地代も未払いという状態、今では想像つきませんよね。石神井ふるさと文化館の「夢の黄金郷「遊園地」~思い出のメリーゴーランド~」にも紹介されなかった、豊島園の荒廃した時代の風景です。
 この光景を見れば小川氏も豊島園の整理に従うかと思いきや、彼は違いました。

 だいたい、大金持ちが子供のかわいさのためにつくった大遊園地が担保流れになろうという不景気のご時勢に「郊外の豊島園を分譲するから買え」と言ったって、買える人のあろうはずがないだろう。第一そんな理由で、ここを食い物にしていた佃政一家が、すなおに渡すはずもない。
(中略)私は会社に帰って、戸沢さんに報告した。
「あれはけっして不良貸しではありません。ただ、分譲地とするにはムリでしょう。はいりこんでいる佃政一家は、そんな理由で、承知するわけがありませんよ」
「・・・。」
「私が思いますのに、東京の人口は約一割です。おそらくその大部分の人間が庭らしい庭を持っていません。ですから、この際、安田であれを保存して、もっと広く世間の人に開放して、みんなで喜んでもらう施設にすべきです」
 大衆に喜んでもらえるような話なら、佃政一家もきっとわかってくれるだろう、と思っての案だったのだが、「とんでもないことを言うヤツだ」と一言の下に、否定されてしまった。
「それでなくても、財閥(安田財閥)は、税金と寄付金に攻められて困っているのに、そのうえ、慈善事業の整理案なんか出されてたまるか。お前は言いつかったことをやっていればいいんだ」
「それじゃあ、私はこの整理はできません」
 私の頭に中には、そのときすでに豊島園について、一つの構想が生まれていたので、これをなんとか実現したいと思っていた。
 それは、私の手で新しく会社(日本企業)をつくって、豊島園を大衆に開放し、おおぜいの人に安心して遊んでもらえるような庶民の庭に築きあげよう、という計画である。

 補足をすると、「日本企業」とは日本の企業という意味ではなく、小川氏がこのあと立ち上げる豊島園の運営会社の名称です。
 豊島園を視察してから、急に小川栄一氏は豊島園を保全しようと考えるようになります。その理由は当時不景気であるので分譲地を買う人がいないだろうという予想、やくざ者との交渉の難しさというのもあったようですが、「庶民の庭に築きあげよう」という構想が一番の原動力となったようです。
 ただ、「豊島園を大衆に開放し、おおぜいの人に安心して遊んでもらえるような庶民の庭に築きあげよう」という考えは、藤田好三郎氏や戸野琢磨先生が考えていた事を少し柔らかく、より大衆的にした文章のようにも思えます。しかしこの本の中では小川栄一氏は藤田氏や戸野先生から、そういった話を直接伝え聞いたような描写はありません。
 もしかすると藤田氏が豊島園に理想を注いだのに対し、逆に豊島園からその理想を園の特徴として小川氏は読み取ったのかもしれません
 いずれにしても、こうして藤田氏とは全く異なるタイプの実業家である小川氏による豊島園の再生が始まるのでした。

小川栄一氏による豊島園の再生

 豊島園の再生は安田信託銀行の事業としてではなく、小川栄一氏が個人で富国生命から25万円の借入までして会社を設立し、銀行員と豊島園社長の二足わらじでやることになりました。ちなみに当時は初任給がおよそ90円の時代ですので、とんでもなく非現実的な事をやっていると言えるでしょう。
 そして小川栄一氏は佃政一家の高橋熊次との立ち退き交渉に入るのですが、この話についてはここでは割愛します。結論を言えば高橋熊次とは人情的に寄り添い、円満に二万円の立退料で合意に至るのです。

 こうして昭和十年五月一日、豊島園を整理、開業することができた。当時の入園者は、一年にたった五万人であった。
(中略)この赤字経営をなんとか打開しようと想い、私は、そのころ習いおぼえたタバコを一年間絶つことを誓って、努力した。
 毎日、六時に起きると、私は豊島園にかけつけた。
 この仕事を手がけて思ったことは「観光事業とはまさに清掃屋だ」ということである。入園者の糞尿処理が、一番大きな問題なのである。
 雨の日は部員に命じて、この糞尿を庭園の芝生にまかせながら、
「事業に失敗しても、糞尿屋にまで身を落とせば、必ず独立した生活はできる。」
と悟ったものだ。
 豊島園に顔を出す関係から、どうしても会社につくのは十時過ぎになる。豊島園では社長でも、一方の安田信託では一貸付課長である。いつも社長より出勤がおそいので、上役から
「君、なんとかならないかね」
と言われるが、どうにもなるわけない。
(中略)その後、豊島園の入園者は、半期ごとに五万人ずつ増えて行った。四年前の昭和十四年にはついに五十万人、同十五年にははじめて黒字を出すことに成功した。

 さて、小川栄一氏は一体どのように豊島園を再生させたのでしょうか。
 実は「わがフロンティア経営」には佃政一家との交渉と、この糞尿処理以外の話が書かれていないのですが、石神井ふるさと文化館の「夢の黄金郷「遊園地」~思い出のメリーゴーランド~」冊子に紹介されている豊島園の園内図が昭和10年頃を境にどう変わったのか比較する事で推察する事ができます。

昭和5年豊島園全景

(図)練馬城址豊島園全景 昭和5~7年
引用元:石神井ふるさと文化館の「夢の黄金郷「遊園地」」冊子

昭和13年豊島園全景

(図)豊島園全景 昭和13年
引用元:石神井ふるさと文化館の「夢の黄金郷「遊園地」」冊子

 ちなみに昭和10年頃を境に豊島園の名称に「練馬城址」という言葉が書かれなくなります。

①遊具等の増設
 昭和13年の園内マップにはスポーツランドというエリアができ、遊具が増設されていることが分かります。これは豊島園の遊具の運営を昭和12年から東洋娯楽機が受託したからで、その社史によれば豆汽車、象メリーゴーランド、自動木馬などが設置されたとあります。なお、この東洋娯楽機は後に株式会社トーゴと社名変更し、豊島園を代表するジェットコースター「サイクロン」を納品するに至ります。
 またとしまえん公式ホームページの年表にはこれまでの「小動物園」に加えて「自然動物園」を開園したと書かれています。

②桃太郎神社の勧請
 昭和13年の園内マップ右奥に、これまで釣り堀だったところに桃太郎神社が鎮座している事が確認できます。桃太郎は岡山県がゆかりの地として有名ですが、愛知県犬山市にも伝わっており、昭和5年に犬山市に建立された桃太郎神社を豊島園に勧請したのが、豊島園の桃太郎神社でした。そのため、犬山市の子供たちが豊島園に来園して、桃太郎音頭を踊るというイベントも開催されたそうです。
 当時桃太郎は学校の教科書にも書かれ、子供たちに人気の「キャラクター」でした。要するにキャラクタービジネスを導入した、という事でしょう。

③営業活動と集客イベントの実施
「夢の黄金郷「遊園地」~思い出のメリーゴーランド~」冊子を見ると、昭和10年以降の豊島園はイベントを多く開催し、それに合わせて割引チケットを都度発行している事が分かります。具体的には納涼夜間開園、特別奉仕デー、納涼花火大会、簡易保険加入者優待デーなどです。学校団体へは学校長あてに優待入園券の付いた営業の手紙も送付されていました。
 このようにイベントを開催して割引価格で来園を促し、リピーターの獲得に務めていた様子が見て取れます
 また、昭和12年には「第1回森永母の日」というイベントが開催され、森永製菓のお菓子の販売店で「お母さま」20万人に無料招待を行いました。このイベントは日本において母の日が定着するきっかけとなった出来事であると言われています。

森永母の日

(図・写真)森永母の日のチケットとその様子
引用元:石神井ふるさと文化館の「夢の黄金郷「遊園地」」冊子

 こういった興行的な経営感覚については、藤田好三郎氏は苦手だったかもしれないですし、そもそも「高尚さ」を求めていた藤田氏にこういった発想自体が無かったのかもしれません
 小川栄一氏はとにかくストイックに集客を行い、豊島園の黒字化を成功させました。藤田好三郎氏・戸野琢磨先生の描いた豊島園像とは異なる姿にはなったのかもしれませんが、小川氏の努力なくして豊島園は存続しなかった事は、豊島園を語る上では覚えておかなければならない事実でしょう。

小川栄一氏のその後

 小川栄一氏ついては昭和38年に、ある有名な発言をしています。
 それは海外視察旅行から帰国し、安田財閥の全役員を前にした演説でのことでした。

 われわれは、55歳の定年になればいやでも2万円の退職金でこの財閥を去らねばなりません。しかるに財閥は天下の秀才を集め、しかも『確実にして有利』『有利にして確実』な投資を求めて無限の富を築こうとしている。この結果、わずかな有限の富しか築けない大衆と無限の富を築いてゆく財閥との間にはおのずから大きなギャップが生まれてくるのではないでしょうか。それはやがて無限を志す財閥の富を根こそぎ持ち去ってしまうかもしれません。
 そこで財閥はみずから富を有限とし、限度を超えた富に対しては、やがての成長産業のために投資する、従来財閥としてやらなかった投資、あるいは慈善事業など、社会、公共ともに生かすことを考えていかねばなりません。
(引用:藤田観光知られざる60年

 この財閥批判とも取れる発言は当時大変な顰蹙を買ったそうですが、小川栄一氏はこの物怖じの無さ、歯に衣着せぬ発言のまま自分の道を切り開いていきます。そして、

 華族、財閥が独占していた様々な庭園や邸宅を大衆に開放することが観光事業であり、経営者がなすべき社会事業である
(引用:藤田観光知られざる60年

という信念を持つようになります。

 小川氏は豊島園を武蔵野鉄道(今の西武鉄道)に売却すると、昭和19年には倒産していた藤田財閥の立て直しにかかります。ちなみに、ややこしいですがこちらの「藤田」は藤田好三郎氏には全く関係なく、現在のDOWAホールディングスの前身です。(現代では藤田財閥の方が有名なので、藤田好三郎氏を藤田財閥の人だと最初勘違いする人もいるようです。)
 この時小川氏は、藤田財閥の藤田平三郎氏(こちらも名前が似ていて紛らわしいですが)から箱根の別荘を譲り受け、和風旅館として開業します。これが現在の箱根の小涌園です。この小涌園の開園も当時は「温泉は出ない」と言われていたところに綿密な地質調査を行い、温泉を掘り当てる事に成功しています。そして小涌谷一帯を温泉リゾート地と化すことに成功したのです。

 また同時に小川氏は、江戸時代は久留里藩の下屋敷、明治時代は総理大臣も務めた政治家であり軍人の山縣有朋氏の邸宅、大正時代からは藤田財閥が所有していた椿山荘を譲り受け、これも庭園を活かしたホテル、結婚式場、レストランとして発展させました。

 1955年、藤田興業の観光部門を独立させて藤田観光を創業し、小川氏は初代社長に就任しています。藤田観光は現在では椿山荘に本社を置き、椿山荘、小涌園のほか太閤園、ワシントンホテル、下田海中水族館などを運営する巨大企業です。観光・ホテル業界で藤田観光や小川栄一氏の名前を知らない人はいないでしょう。

 粘り強さと行動力で大成功を収めた小川栄一氏は「わがフロンティア経営」でこう述べています。

 私は後年、椿山荘、小涌園など、財閥の庭園を開放して、観光事業に足を踏み入れたが、このはじめて手がけた豊島園の経験は、実に得がたいものがあったと思う。

 豊島園は小川氏の「様々な庭園や邸宅を大衆に開放する」という信念の原点となったのです。

 ところで、小川氏にとっては藤田好三郎氏も「大金持ち」という認識だったようですが、藤田好三郎氏も過去紹介した通り大川財閥と血縁関係を持つまでは生家はあまり豊かではなかった人物であり、小川氏が「財閥はみずから富を有限にすべき」と主張したのと同じように藤田氏も「財産一代制」を主張していました。
 また、藤田氏は日本は風景国であり、庶民の趣味・娯楽の奨励、外国人観光客の誘致を目的として、日光や箱根の観光開発を主張していましたが、小川氏は「様々な庭園や邸宅を大衆に開放する」という信念から箱根の観光開発を実現しています。
 性格的に両者は全く異なるタイプであることは明白ですが、社会観には通じる事が多いように見え、彼等が豊島園の歴史上に現れるのも、あながち偶然ではないように思えてきます。同様に、箱根の観光開発の歴史の次に登場するのが「箱根山戦争」と呼ばれる巨大企業グループによる箱根の縄張り争いで、その一方が豊島園の次の経営者でもある西武グループであるというのも興味深いですね。

 この藤田好三郎氏、小川栄一氏の時代だけをとっても、我々が豊島園の歴史から学べる事は多いと思います。世の中は諸行無常ですし、万物は流転すると言いますが、まさにそれです。その中で理想の実現をしようとした男たち、智慧を絞った男たち、汗水たらした男たちがいて、今まで豊島園が在ったのです。


 豊島園の歴史には、来園者の楽しい思い出だけでなく、人の理想や苦労、智慧や行動が詰まっています
 そしてそれを伝える場は開園時から豊島園を見守ってきた「古城の塔」のほかに無いのではないでしょうか。


引き続き、キャンペーンの応援を宜しくお願いします。


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