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20200224

 白檀の香りはまだ部屋の中に残っているみたいだった。白檀の線香を焚いたのはずいぶん前のはずだった。それなのに香りはまだここにいて、あって、途切れ途切れに風景を誘発させる。ドキドキしていたことを覚えている。まだ物心つく前のことかもしれない。それでも体は大人みたいだった。たくさんの人がいて、その中に紛れていた。別れを惜しむ人もいた。私もその中の一人だった。手を伸ばしてみるが、もう届かない場所にいた。私は一体誰に向かって手を伸ばしたのだろうか。目的があったのか、何か救い出そうとでもしているのか。ただこれで何もかもが終わってしまうことだけは分かっているみたいだった。列車は間も無く出発するのか汽笛の甲高い音が鳴り響いている。私は鉄格子に囲まれたホームにいて、列車からずいぶん離れた場所に今はいるみたいだった。天井を見上げていた。空は見えなかったが、隙間から光が差し込んでいるから晴れているんだと思った。赤い列車。紅色の列車。横断幕を掲げた人々。文字はよく見えなかった。アルファベットだと思う。掠れてよく見えない。白い布が雄叫びでもあげるみたいに揺れていた。叫んでいたのだろうか。そうだとしたらあの叫びは私の体を通って、私は無感情に叫んでいたのだろうか。「指示を出す人を決めろ」それだけ言った。感情はどこかに行った。高ぶりもしなかった。高ぶることもない気圧。低いままの山。見違えるみたいに広がった草原。湿った朝露。転がると洋服は濡れて、着替えなくちゃいけないくらいだった。まだ外は涼しかった。嫌いとか好きとか分別をしても仕方なかったのかもしれない。ただ草原は広がっている。山ではなかった。平坦だった。丘になっていて、そこで歌う。髪の長い、真っ黒じゃない。紺色がかった毛色の少女が歌う。私もつられて歌う。

見て 聞いて 知る

目を瞑ってみる風景が 僕を誘う

静かに佇む 草原  

目まぐるしく回る 空と青

いてもたってもいられず 声を上げる

もういいかい もういいかい

見て 聞いて 触れる

夢だった現実が 僕と歌う

大きな声で笑う 鳥

真っ暗に染まる 海と青

迷い込んだ隙間に 手を差し出す

ここにいるよ ここにいるよ

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 また始まった。だから体は緊張するように固まった。怖いとか不安とかそういうこととも違ったのかもしれない。ただ声による振動だった。体を通過するときに、あまりに体を揺らすものだから、振り落とされないように必死なのだ。どんな声が体を通過してもなんとかしがみつくことはできた。そういうことを苦しいと一言で済ませてしまうとすっかり苦しさだけが充満していく。だから通過させていく。地面は気前よく受け入れる。どんな落し物も、持ち主を探すこともなく、ただただ置いておくことができる。だからそのことに甘えて、あらゆる声を落とす。抱えきれない振動を地面に託す。委ねる。そうやってお願いすることを何度もやってみた。断られることはなかった。これでいいのかと困惑したことだってあった。それでも持ち主を探そうとはしない。受け入れたのだろうか?それともただ落し物で、地面に乗っているだけで、小さな靴下とか、小さな靴が片一方だけ落ちているのは、忙しなさの現れでしたか?拾い上げたところで片一方にたどり着くことは出来ないだろうし、それでもきっと片一方は片一方で、もう一方を探そうともしないだろう。連れ添う必要もなかったのかもしれない。無理に連れまわす必要だってなかった。どこか似たところがあったり、それとも全然似ていない可能性だってあって、似たところなんて全てにあって、全てに一部がどうしてもこびりついてるみたいで、否応にも受け入れざるを得ない。ただ重点的に見ていたのは僕の方で、僕が見ていたのはいつも足りない部分であったのかもしれず、それは不足をより加速させるのか、肥大させるのか、増えているはずなのに減っていく自尊心は破裂してしまうこともなく欠乏の連続でした。じゃあやめてみたらと言うが、これは誰の状況を指しているのか未だに分からずにいる。指摘に対してはただ冷静に聞くこともできたのかもしれない。ただ口から言葉はこぼれ出る。無感情に言葉だけが溢れて、あたりは騒然とする。静かに騒然とする。始まったことを察知する。私たちはその渦中にいて、逃げ出そうともしない。ただ立ち止まる。停止する。結局どうするのかを考える。考えてみたところで行動は変わらない。ただ任務を遂行するまでで、その日決められた仕事を物量をこなす。こなすためにいる。機械とも違った。ただ感情は何度も板挟みになって、犯人を探すでもなく、ただ信頼もなく、信用もなく、また同じ失敗が繰り返される。ノートに記された文字と数字はいつも曖昧で、あっていることなんてなかった。

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 体を否定する視線が、評価を下そうとする視線が遠巻きに眺めていた。だから視線を体に取り込んで一体になることにした。体は骨を鳴らして動き出した。背骨とか鎖骨とか肩甲骨がぎこちなく、不自由に動き始める。固まっていたというよりは緊張していたのだろうか。滑らかになるように動こうとするよりは、ぎこちなさそのもになって固まっていた。眠っていたわけじゃない。だけど目は瞑っていた。心境を吐露することもない。ただ手が円を描いて回った。額に両手が注ぎ、めいいっぱい手のひらを広げる。目を開くみたいに広げた。花が咲いたのか、目が開いたのか、それとも起き上がったのか。両足で立ち上がって、ただ揺れていた。そのうちこうべを垂れて、四つ足の生き物になって、歩き回った。ツノは生えたままだ。一角獣のツノ。ユニコーン、龍、鳳凰。流行り廃りみたいに精霊を呼び出して、次は君で、次は君で。精霊は流行に飲み込まれてしまうのですか?私たちの存在は商業化され、消費されていくのですか?喜んでいるのは、いつだって精霊を扱おとする野蛮人だったのかもしれないし、しかし精霊たちはそんなことを気にも留めない。目立ちたがり屋もいればそうでない者もいた。また夜が来る。鈴が鳴る。また開戦する。叫び声が鳴る。

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 内側が外側を現すのか、外側に内側が反応するのか。どちらにせよいまある感触を味わい続けるしかないのかもしれないし、やめることもできないし、無視もできない。無視したところで、存在はより際立ってしまうから、それだったら後回しにすることなんてなく、肩を寄せ合ってみて、一体になって、同じように揺れて、似たように揺れて、現像する。

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