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シーボルト博士の一徹な愛情

先日、長崎の鳴滝にあるシーボルト記念館を見学しました。

シーボルト博士は、19世紀前半に長崎へ赴任した医師で、専門の西洋医学を中心にその知識を幅広く日本に伝えたとされています。
当時、日本は鎖国政策で、オランダだけが長崎の出島で通商を許されていました。

その一人がシーボルトで、来日時はまだ20代の若さです。相当優秀だったのだろうとうかがえます。

シーボルトは当時の最先端であった西洋医学を献身的に教えます。

例えば、天然痘予防として種痘法(つまりワクチン治療)についてもシーボルトが初めて日本にもたらしました。
実際にそれを実践して普及させたのは、彼の弟子のひとり「緒方洪庵」として知られています。(他にも高野長英などが有名ですが、記念館にはそれ以外に数多くの人材が列挙)

種痘法はもともとイギリスの医師ジェンナーが開発したもの(民間伝承としては知られていた)ですが、彼は博物学者としても有名です。

シーボルトは、ジェンナーと直接的な関係はなかったとされますが、彼同様に植物学や文化など日本の幅広い分野に興味を持ち、探求を続けます。

後年ドイツに戻って執筆した彼の日本について書かれた著作は相当なインパクトを与えたそうです。

特に興味を引いたのが、あのペリー提督が、日本についての著作はシーボルトの著作のみが有用だった(先人を足しても及ぼないと表現)、と伝えたとのこと。

こちらのサイトをみると、黒船に搭乗希望をしたそうですが、断れたエピソードもあったようです。

ただ、シーボルト事件で追放されたのち、別の流れで再来日を達成しています。彼の生涯については、下記でまとまっています。

なんとなく、訪問するまでは「シーボルト事件」というイメージで日本の機密情報を持ち出そうとした人でした。

ただ、記念館の資料やそこから派生して色々なサイトを見たうえで感じたのはむしろ逆で、

日本のすばらしさを世界に広めようとした人

でした。

今でも、彼が居た出島では、彼が来日した時に作った植物園を作りました。今でもその名残は見ることができます。

またどこかでシーボルトの業績については深堀してみたいと思いますが、その生涯は常に日本を向いていたのは間違いないところです。

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