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月のクレーターと初めて覗いた天文学者の話

「事件は地球で起こっているわけではない。月で起こってるんだ」

そんな言葉を連想する、月に衝突したロケット犯人捜し騒動が一カ月ほどありました。
どうも中国製に落ち着きそうな感じです。

犯人もそうですが、軌道を外れたいわゆる「宇宙デブリ(ごみ)」を追跡していない今の状況は問題ですね。
地球だと大気圏で燃え尽きる可能性が高いと思いますが、今後月面基地を作る時代が来ると、大きな脅威になりそうです。

宇宙デブリについは過去何度も触れたので、今回は衝突して1つ増えた「月のクレーター」について、それを初めて覗いた伝説の日本人天文学者を紹介します。


月のクレーターの歴史と日本人


初めて月のクレーターを見つけたのは1610年で、天文望遠鏡の発明者としてもしられるガリレオ・ガリレイです。
月のクレーターは、当初は政治的思惑もありましたが、現在は科学・文化に功績を残した有名人の名前がつけられます。

そのうち、日本人名の一覧が下記サイトで紹介されています。

下記で引用しておきます。

地名 元になった人名 プロフィール 緯度 経度 地形、クレーター直径
Asada 麻田剛立 医者、天文学者
(江戸時代) 7.3N 49.9E クレーター (12km)
Hatanaka 畑中武夫 天文学者 29.7N 121.5W クレーター (26km)
Hirayama 平山清次
平山信 天文学者 6.1S 93.5E クレーター (132km)
Kimura 木村栄 位置天文学者 57.1S 118.4E クレーター (28km)
Murakami 村上春太郎 天文学者 23.3S 140.5W クレーター (45km)
Nagaoka 長岡半太郎 物理学者 19.4N 154.0E クレーター (46km)
Naonobu 安島直円 数学者 4.6S 57.8E クレーター (34km)
Nishina 仁科芳雄 物理学者 44.6S 170.4W クレーター (65km)
Onizuka エリソン・オニヅカ 宇宙飛行士 36.2S 148.9W クレーター (29km)
Reiko (れいこ) 日本の女性名 18.6N 27.7E 谷 (2km)
Taizo (たいぞう) 日本の男性名 16.6N 19.2E 谷 (6km)
Yamamoto 山本一清 天文学者 58.1N 160.9E クレーター (76km)
Yoshi (よし) 日本の男性名 24.6N 11.0E クレーター (1km)

出所:上記サイト

一番上の「麻田剛立(あさだ ごうりゅう)(1734-1799)」が、日本人で初めて月のクレーターを覗いて観測した方です。

出所:https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/013.html



江戸時代までの天文学と麻田剛立

麻田剛立は日本で初めて天文を専門とした私塾(先事館)の創設でも有名な、江戸時代のお医者様 兼 天文学者です。

江戸時代までの天文学は、今と異なり「暦(こよみ)」を正確に記す手段で、吉凶占いや農業など日常生活にも影響します。

平安から江戸時代まで、長年中国の古い暦法に依存していたのですが、いまいちな精度でした。

そんな時代背景のなか、麻田は豊後(今の大分県)で生まれ、儒学者の父のもとで育ちました。
幼少のころから好奇心旺盛で、影が動くことで太陽の動きに興味を持ち、父からもらった天体観測器具を使って、その動きを独自に観測していました。

当時の日本では、まだ地球を中心にした球面上に太陽を含めた星が張りついているモデルです。

麻田が初めて注目されたのが、独自に観測した結果をもとに、当時の江戸幕府公式の暦(宝暦暦)にない皆既日食を見事に言い当てたことです。当時まだ20歳の出来事です。

関心は天文に留まらず、同じく独学で得た医療知識が認められて、藩の侍医として江戸・大阪にも滞在し、現地名士や最新技術などの交流も深めました。

そして豊後藩に戻った後、どうしても侍医でなく「天文学」がやりたいという想いが抑えられず、脱藩して大阪に向かう判断をします。
さらっといいましたが、当時の脱藩行為はおおげさでなく命がけです。それだけ麻田が天文学にかけた執念が伝わります。

その大阪で当時最新の西洋の反射式望遠鏡に出会うことになり、初めて「月のクレーター」を覗いた日本人となりました。

当時の本人による月面観測記録を引用しておきます。

出所:https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/images/013/013005_b.jpg?2019


歴史的発見と彼に続く弟子

麻田は、自身の観測から「ケプラーの第3法則」を独自に発見したとされています。
ケプラー法則は下記3つから構成され、以後のニュートンの万有引力の研究にも影響を与えています。

ケプラーの法則
第1法則:惑星は、太陽を焦点のひとつとする楕円軌道上を動く。
第2法則:惑星と太陽とを結ぶ線分が単位時間に描く面積(面積速度)は、一定である。
第3法則:惑星の公転周期の2乗は、軌道長半径の3乗に比例する。


麻田の評判はいつしか日本中に知れ渡り、ついには時の将軍徳川吉宗(暴れん坊将軍ですね)から計画のあった改暦責任者としてオファーが届きます。
吉宗と聞くと意外におもうかもしれませんが、実は科学について造詣が深く、その前にも西洋式の改暦をトライしたのですが(宝暦暦)、残念ながら成功とは言えない精度でした。

幕府からのオファーに対して、麻田は高齢を理由に固辞し、代わりに当時彼を慕って集まってきた弟子のうち、高橋至時(よしとき)間重富を推挙します。

2人は重責を見事に果たし、日本史上初めて西洋天文学をきちんと取り入れた「寛政暦」が出来上がります。

この高橋至時の弟子にあたるのが、日本地図で有名な「伊能忠敬」です。
伊能忠敬の功績はここで触れるまでもなく、世界的に見ても驚嘆すべき地図の測量精度を誇っています。

麻田の幼いころから培われた天文観測への執念と科学的な姿勢を学んだ高橋から、その命脈が受け継がれたといってもいいと思います。

正直、麻田剛立という人物は、残した功績の割にはあまり知名度が高くありません。

それには1つ理由があり、彼は、自分が亡くなったら著作を消去するように家族に指示しました。
後世に研究が進むと自身の研究内容は誤りになるから、というのが彼の主張と言われています。

麻田は幼少のころから既存の常識に疑いを持って独学に励み、自身の研究に対してすらも常に謙虚に疑いの目を持ちつつ、そして何よりもその志にまっすぐに生き抜きました。

まさにそんな麻田を象徴する死後エピソードとも言えますが、個人的にはその成果物の大半が消えてしまったのは残念でなりません。

ただ、高橋至時と伊能忠敬をはじめ、彼が創設した天文学の私塾(先事塾)から今後の日本を創る優秀な人材を輩出しました。
月のクレーター名に選出されて当然の方だと思います。

出所:Arg.editor - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=97079652による


今回の参考文献として書籍を2つほど紹介します。前者は児童書ですが、大人が見ても面白いので、ぜひ関心を持った方は読んでみてください。


麻田剛立は、ある意味「日本の近代科学の祖」と言えるかもしれません。

研究成果は古くなったとしても、その生き方については今でも多く学ぶところがあると思います。

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