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⚫︎奈良の似顔絵⚫︎救世観音像@法隆寺夢殿


[Global NARA] 1999 No.13

グローバル奈良 第13号 1999年1月発行(表紙+裏表紙)イラスト、表紙の言葉/中田弘司

表紙の言葉
救世観音は年に数日しか公開されず、その荘厳な姿はほぼ暗い闇の中に居られます。開帳されても十分な光が当たらないので、はっきりは見えないそうです。全てが見えなくても感じるだけで、満足することも必要なようです。

企画・編集・発行/奈良県企画部文化観光課

明治政府から関西古社寺調査団の顧問に抜擢されたフェノロサが、夢殿を開扉し、救世観音像は2000年ぶりに姿を現した。

1886(明治19)年、法隆寺に1人の外国人を代表とする調査使節が現れました。彼らは明治政府の身分証明書を提示し、夢殿の厨子を開扉するよう要求しました。僧侶達は、「この厨子は200年間、開かれたことがない」「これを開くと地震などの災害が起こる」などと異を唱えます。しかし、ついに扉は開かれ、その中には木綿の布で包まれた6尺はあろうかという物体が安置されていました。その包みを解くと、かすかな微笑みをたたえた比類なき仏像が出現しました。この仏像が救世観音像であり、開扉を迫った外国人こそアーネスト・フェノロサ(1853-1908)だったのです。

奈良県歴史文化資源データベース「いかすなら」HPより



法隆寺のある斑鳩町の隣の村で、わたしは子供の頃に育ちました。こんなに貴重なお寺とも知らずに過ごしていました。自転転で遊ぶ頃には、出かけるのにはちょうど良い距離で、スカスカした風景が今も懐かしい。

法隆寺、どこまでもまっすぐな塀が続く

また3月の聖徳太子のご命日に、その遺徳をたたえ供養する法要「お会式」が行われ、毎年楽しみで通っていました。その時は参道いっぱいに露天が並び、普段の静けさや地味さとは違う、お寺の晴れの表情にワクワクしていました。でも当時、子供だった私は仏像を見ていませんでした。






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