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母になった私が「初めての〇〇」に対して思うこと

昨日息子が初めて立っちをしたらしい。
「らしい」というのも、私は直接見届けておらず
留守番中の旦那からの報告で知った。

かわいい。嬉しい。
家に帰ったらいっぱい抱きしめよう。
初めての立っちの時、息子はどんな表情をしていたのかな。
そもそも彼はなんで立っちをしようと思ったんだろう。
見たいものがあったのかな。取りたい物があったのかな。
直接見届けられなかった私は息子の「初めての立っち」を想像して思わず笑みがこぼれた。

そういえば、「初めての寝返り」も私は見届けられなかった。
その時も初めての瞬間を逃したことをあまり悔しいと感じてない自分にびっくりしたことを覚えている。
その理由を分析したくなったので、なんとなく書き留めておこうと思う。


【成長は漸次的だということ】

これは実際に子育てをしてみて思ったんだけど、
できなかったことがある瞬間から急にできるようになる、てことは子育てにおいてあまりなくて、段階的に少しずつできるようになることがほとんどだ。
寝返りに関しても、補助ありで何回か寝返りしてたから、できない・できる の線引きは難しい。
もしかしたら前からできる筋力はあったけど寝返りする気分じゃなかっただけなのかもしれない。
成長は階段ではなく坂道みたいなもので、「初めての瞬間」のビフォーアフターに決定的な段差はない、みたいな感覚かな。


【そもそも私にみえる成長は限られてるということ】

これは実際に「見える」という意味でもそうだし「捉える」という意味でもそうだ。これから大きくなってくるとますます、学校とか仕事場とか、成長に立ち会える場面は減っていくし、私には想像できないこともできるようになっていくだろう。
それに私と息子の感じる〝成長〟って多分一緒じゃなくて、例えば今回の初寝返りでパパママは騒いでるけど自分的にはどうってことなくて、もしかしたら「パパの声を認識した記念日」があったかもしれないし「思った通りの声が出た記念日」が昨日だったかもしれない。私が捉えられる成長なんて多分ほんの一部だし、私の気づかないところで常に息子は成長を続けてるんだろうなぁ、と思う。


【できるできない、にこだわりがないこと】

そもそも、の話になるけど自分自身「できるできない」にそんなにこだわりがないのだと思う。いつ立てるようになるかな〜とは言ってみるものの、いつでもいいな〜、と全然焦ってない自分がいた。これは多分 家庭環境の影響で、何かができたこと自体を褒められたことはあまりなかったからだと思う。小学校の頃「オール5だったよ〜」て母に報告した時、反応が薄かったことを今でも覚えている。成績を聞かれたことはなかったし、それで褒めることもなかった。だからこそ私は自分のために大学にいけたし、自分のために就職ができた。

その分 母は毎日〝私自身〟のことを褒めてくれた。恥ずかしくなるくらい、優しいね、賢いね、かわいいね、と言われていたから私は愛されているし、私のままでいていいんだな、と感じていた。
もちろん、受験や仕事みたいに「短期的」で「定量的」な目標がある場合は、結果に対して褒める方が効果的なこともある。でも、息子のこの先の人生でそれをしてくれる人は多分私以外にたくさんいて、だからこそどんな時も息子の存在自体を肯定する存在でいたいな、と思う。

おわり☺️

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