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物理学と経営学

(以下は、早稲田ビジネススクールに在学中に書いたエッセイの再掲です。一部、加筆修正。)

1.物理学からのインプリケーション

経営組織論のひとつに、制約条件の理論(Theory Of Constrains; TOC)という理論があります。この理論は、イスラエルの物理学者エリヤフ・M・ゴールドラット(Goldratt, E., 1948-2011)によって提唱された理論です。

企業収益の鍵を握る制約条件(ボトルネック)にフォーカスすることにより、最小の努力で最大の成果を上げる生産スケジューリング手法・経営管理手法で、GM、ボーイング、3Mをはじめとする世界の有力企業において導入されています。TOCでは、ボトルネックへの対処の仕方 として、まず、制約条件(ボトルネック)を見つけ、それを最大限に稼動できるようにして、他の工程をボトルネックと同期させ、全体のスループットを増大させます。

ゴールドラットは、1984年、ビジネス小説「ザ・ゴール(The Goal)」を出版し、全米で250万部の大ベストセラーとなりました。この本に書かれている新しい生産スケジューリング手法を実行し、飛躍的な成果を上げる企業が続出するのです。その後、TOCを生産管理から企業経営・組織全体を管理する理論へと発展させ、アメリカをはじめ、世界各国の企業経営、生産管理に大きな影響を与えました。制約条件の理論は、もともと生産管理の理論として出てきましたが、今では、目標を達成するには、どのように組織を管理したらよいかを説明する理論として、経営組織論のひとつに数えられています。面白いのは、この理論が経営学者によって提唱されたのでもなく、生産管理の実務者によって提唱されたものでもなく、物理学者によって提唱された、というところです。

エリヤフ・M・ゴールドラット(Goldratt, E., 1948-2011)

このエッセイでは、TOCのように、物理学から経営学や経済学へのインプリケーションを与えているものは他にないかを考えてみたいと思います。

2. 物理学のビジネスモデルへの応用 

物理学の学生が大学院で素粒子物理学を専攻すると、まず最初にファインマン・ダイアグラムを使った計算方法を勉強させられます。例えば、電子と光子の散乱を「コンプトン散乱」と呼びますが、その計算は「クライン・仁科の公式」で計算できます。仁科は日本を代表する物理学者ですが、クラインと仁科は、1か月もかかって、この公式を導いたそうです。それが、ファインマン・ダイアグラムを使うと、ほんの数十分で(大学院生でさえ)計算できてしまうのです。リチャード・ファインマン(Feynman, R., 1918- 1988)は、米国出身の物理学者。1965年、量子電磁力学の発展に大きく寄与したことにより、ジュリアン・シュウィンガー、朝永振一郎とともにノーベル物理学賞を共同受賞。

ファインマン・ダイアグラムは、複雑怪奇な素粒子の現象を図解の手法によって簡単化したものです。下は、電子と電子の相互作用を表すファインマン・ダイアグラムです。

コンプトン散乱のファインマン・ダイアグラム

これをビジネスモデルに応用したものに、「ピクト図」があります。企業のビジネスモデルを「見える化」したり、新たなビジネスモデルを発想する手法です。ピクト図の要素は、ヒト・モノ・カネという事業を成立させる主要な資源と、それらを販売、金の回収などの関連性を矢印で結びます。 これらの主要な記号のほかにオプションとして、時間軸を示す矢印や、人・物を統合する中括弧が導入されています。ビジネスモデルの本質はこれだけで表わせてしまうのです。

下左図は、1994年に米国シカゴ近郊のフェルミ国立加速器研究所で世界で初めて発見されたトップクォークの生成と崩壊を表すファインマン・ダイアグラムで、下右図は、カーナビ業界のビジネスモデルをピクト図を使って表したものです。よく見比べてみると、どことなく似ているような似ていないような気がしてきます。

3. 物理学の経済学への応用 

物理学が経済学へ応用されたものとして、経済物理学という学問分野があります。経済物理学は、経済現象の詳細なデータを物理学の手法を用いて分析し、実証的に本当に起こっている経済現象を解明する学問です。現在のところ、扱う対象としては、株式、為替、先物などの市場、企業間ネットワークなどがあります。

経済物理学では、主に統計物理学的な手法を用いて経済を研究します。統計物理学で重要な概念の一つに相転移の現象がありますが、市場にもバブル・暴落相と平穏な状態の2つの相があり、その相の間を転移するというのが、経済物理学の典型的な考え方です。物理学における相転移のように、投資家の思考が一方向にそろってしまうためにバブル・暴落相が出現すると考えられています。このように、相転移という概念は、物理現象だけでなく、経済現象を捉えるのにも役立つと考えられています。

経済物理学が出てくる前は、経済学には見落としていたものがありました。それは、非線形な相互作用によって発生するカオスの効果です。物理学の世界においては、30年ほど前から、複雑な現象を解析するための概念や解析手法は飛躍的に進歩しました。その代表がカオスやフラクタルといったものですが、経済物理学では、複雑系を理解するためのキーワードである、フラクタル・自己組織化・ネットワーク・カオスなどの概念を用いて、市場を理解しようとしています。まさに、物理学の経済学への応用といえるものです。

経済物理学は、誕生間もない若い研究分野ですが、これまでの経済学の常識を覆す発見や斬新なアイデアが報告されています。経済物理学という用語は、ユージン・スタンレー(Stanley, H. 1941 -)により提案され、1995年、カルカッタの統計物理学の会議で最初に用いられました。スタンレーは、アメリカの物理学者でボストン大学教授。

4. さらにロジカルシンキングへの応用 

フェルミ推定と呼ばれる思考方法があります。これは、仮説思考、全体から考える力、抽象化といったロジカルな思考ができるような思考方法です。ここでいうフェルミとは、イタリアの物理学者のエンリコ・フェルミ(1901-1954)のことです。ローマに生まれ、26歳でローマ大学教授。世界最初の核実験が行われたとき、ノートの紙片を、爆風を感じると同時に部屋に自由落下させて、爆発の衝撃波で飛ばされたその紙の挙動から、実験に用いられた核爆弾の規模を推定しました。フェルミ-ディラック統計、ニュートリノの導入、弱い相互作用など、数々の輝かしい業績を上げた。1938年、ノーベル物理学賞受賞。1942年、シカゴ大学に世界最初の原子炉を完成しました。

フェルミは、シカゴ大学で教鞭をとっていたとき、学生に「シカゴにピアノの調律師は何人いるか?」といった質問をして、少ない仮定から結論を導き出すことを試験に課していました。このような実際に調査するのが難しいとらえどころのない量を、いくつかの手掛かりを元に論理的に推論し、短時間で概算することをフェルミ推定と呼び、論理的思考を鍛えるのに使われています。フェルミ推定はコンサルティング会社や外資系企業などの面接試験で用いられることがあるほか、欧米では学校教育で科学的な思考力を養成するために用いられることもあります。こうした、知識力がある人間ではなく「地頭のいい人」が、現在のビジネスの世界では求められています。

5. 物理学と経営学・経済学との関係性について 

さいごに、物理学と経営学・経済学とのアナロジーについて考えてみたいと思います。まず、物理学の枠組みでは、大きく分けて、理論物理と実験物理があります。さらに、理論と実験との間に並び立つ第三の研究手段として計算物理というものもありますが、一般にシミュレーションを行うところを言います。計算物理は、理論の分野でも実験分野でも扱う分野ですので、自分の専門は計算物理です、という物理学者はあまりいません。理論物理についていえば、さらに、計算手法によって実験結果を予測する現象論と、理論的な枠組みを構築する純粋理論とに分けることができます。この物理学における理論・現象論・実験という枠組みを経済学・経営学との対応関係として考えてみると、経済学⇔理論、経営学⇔現象論、実務⇔実験。最後の対応関係は少々無理やりな気もしますが、それなりに説得力のある対応関係にあるように思います。

一見、何ら関係ないものに思われても、よくよく調べてみると、根底には互いに共通する枠組みや考え方が存在しているものがあります。物理学は自然科学に属し、経済学や経営学は社会科学に属していますが、同じ学問体系である以上、これらの中に共通するような考え方があるのかもしれません。物理学に代表される自然科学は、自然界に起こる現象を取り扱いますが、人間活動によって起こされる経済現象も、また、自然の中に生きる人間によるものとして、自然現象であるのだ、といえるのかもしれません。

参考文献
エリヤフ・ゴールドラット、「ザ・ゴール」、ダイヤモンド社、2001年

高安 秀樹、「経済物理学の発見」、光文社新書、2004年

F. ハルツェン、A.D. マーチン、「クォークとレプトン―現代素粒子物理学入門」、培風館、1986年

板橋 悟、「日経新聞で鍛えるビジュアル思考力」、日本経済新聞出版社、2009年

細谷 功、「地頭力を鍛える 問題解決に活かす『フェルミ推定』」、東洋経済新報社、2007年


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