『ある晩年』《生》と《美》の哲学的思考、その物語としての表出
発表年/1962年
短編小説『ある晩年』は、『城』『西欧の空の下』『影』などとともにごく初期にパリで書かれた作品です。『西欧の空の下』はややエッセイ風な掌編で、機会があれば他の短い作品と合わせてご紹介しようとおもいます。
さて、『ある晩年』ですが、フランスのT**市で弁護士として名をあげたエリク・ファン・スターデンの最後の半年ほどを描いた小説です。先にご紹介した『献身』と同じように、こちらも単行本としては初期の短編集『シャルトル幻想』にまとめられていますが、そのあとがきで辻邦生さんは『ある晩年』についてこう書かれています。
少し事情を説明すると、辻邦生さんは大学生の頃に小説を書こうと思い立ってから10年間、書けずにいました。それはフランスに渡ってからも続いていましたが、ギリシャ旅行をきっかけにある啓示を受けることになります。そのときのことはこう綴られています。
こうした経験があったのち、なおしばらく経ってから書かれたのが短編『城』であり、この『ある晩年』だったのです。
1.物語前半のファン・スターデン⏤⏤覆される日常
この作品の主人公、エリク・ファン・スターデンは弁護士として大変有能でした。仕事ぶりは何十年ものあいだ寸分の狂いもなく⏤⏤というのも、法律家にとって生活とは、物をあるべき場所に置くこと、無秩序なものを秩序にもたらすこと⏤⏤というのが彼の信念だったからです。その信念に従って行われる仕事は、たとえどれほど厄介なものであっても秩序立てて行われ、日々の規則正しい生活の中にパズルのピースのように組み込まれていきました。そんなわけでファン・スターデンは、どんなときでも常に上機嫌でいられたのです。
ところが、ある事件をきっかけに彼の信念が180度狂ってしまいます。それは、彼が直接被った出来事ではなくまた、時が経てば彼の寸分狂いのない日常も元に戻ると思われたほどのものでした。しかし、ファン・スターデンの思いとは裏腹に、さらに追い打ちをかけるようなことが起こります。その衝撃によって、「あるべき物をあるべき場所に置く」という規則正しい生活自体に、彼は疑問を持ち始めるのです。やがてファン・スターデンは、自身の《死》についてまで思いを巡らすようになります、自分のこれまでの生活が如何に曖昧に過ぎてきたものか、それに比べて、そこにある墓石は何と確かなものだろうか、といった具合に。
2.後半のファン・スターデン⏤⏤彼がついにたどり着くこと
前半だけを見れば事件は突発的で、そこからミステリーかサスペンスに向かう可能性もありそうです。しかし、辻邦生さんはそのどちらにも向かいません。
上記のように、辻邦生さんはギリシャ旅行で得たパルテノン神殿での啓示から、一連の小説を書くに至ったのでした。その後それは、先にご紹介した『廻廊にて』や、いずれ取り上げるつもりの長編『夏の砦』となって結実します。そのどれにも共通するテーマが、生きる上での《美》や《芸術性》の追求とその意味でした。
この『ある晩年』でも、ファン・スターデンは十年一日のように行ってきた自身の生き方に疑問を持ち、それこそ新たな啓示を求めるようになります。
長い煩悶と懊悩ののち、近くの公園で彼はひとりの詩人と出会います。公園の真ん中で噴き上がっては落ちる噴水を眺めながら、詩人はまず、自分が噴水と同化することについて語ります。そしてさらに、次のように続けるのです。
しかしこれではファン・スターデンのこれまでの人生が、「あるべき物をあるべき場所に置く」ことを繰り返してきた人生が、全く無意味なものになってしまいます。けれど、それこそが、その無意味な繰り返しこそがまさに「《生》を成就すること」だと、ファン・スターデンは気づくのです。
3.辻邦生さんがギリシャ旅行で得たテーマ「永遠の同一性」
噴水に話を戻せば、その噴き上げを作っているものは一つ一つの小さな水滴に過ぎない。どの水滴も、上がっては落ち、上がっては落ち、その繰り返し。一つ一つの水滴にとってそれは全く無意味で不確かなものだけれど、全体としてある大きな意志を形作っているとしたならば⏤⏤
それが辻邦生さんのおっしゃる「永遠の同一性」です。パルテノン神殿は、その同一性が普遍の美として永遠にそこにあり続けるものとしての象徴⏤⏤それが、ギリシャ旅行で辻邦生さんが得た啓示です。
一人一人の営みは、業績の大小はあれ巨視的に見ればほぼ変わりのないものでしょう。ファン・スターデンのように、無意味と言ってしまっては元も子もないけれど、全ての人が同じように生き同じように死んでゆくことに違いはありません。しかし、物語の最後に詩人とファン・スターデンは咲き誇るクロッカスの花壇を眺め、花々に生きることの純粋な欲望を見るのです。それは《美》と呼んでもいいものです。
4.そして、僕がおもうこと
大会社について語るとき、一人一人は単なる歯車に過ぎない、といったことがよく言われます。しかし視野を広げてみれば、社会も、世界も、さらには人間の《生》そのものが、そうしたものかもしれません。それを是とするか非とするかは本人の考え方次第ではないでしょうか? 自分は無意味であるとしても、そんな人間の、連綿と続く営みが大いなる《美》=《芸術》として永遠に残ってゆくならば、生きる意味は間違いなく存在すると、僕はそう考えるのですがいかがでしょう?
物語は、啓示を得た直後のファン・スターデンの死によって幕を閉じます。
5.辻邦生文学の美しさ/僕がそれを好きな理由
最後に、なぜ僕が辻邦生文学を愛してやまないのか、という点について触れたいとおもいます。レビューを書くにあたり、この『ある晩年』を再読して改めてそれがわかったからです。
それは、辻文学の美しさにあります。
辻邦生さんの作品ではたびたび情景描写が挟まれます。それは、主人公の心情に迫るためだったり、場面転換のためだったり、いろいろ理由がありますが、何より自然や街の描写が美しい。言ってしまえば、温かくたっぷりとした、濃密で滋養豊かなスープを味わうかのよう。そんな香り高い情景描写をいくつか抜粋します。
こうした情景描写の中には、何ほどの意味も持たないものもあります。けれど、例えば昔の古い映画にそんなシーンがよく見られたように、物語を物語たらしめている重要なファクターとして、上記のような描写がそれこそ「あるべき場所」に置かれているとおもうのです。それが物語の厚みとなって、読み手に芳醇で満ち足りた読後感を味わわせてくれる、それ故にこそ、辻邦生作品を読むというこの時間が、何より僕には至福のひとときなのです。
【今回のことば】
『ある晩年』収録作品
・新潮文庫「見知らぬ町にて」1977年
・阿部出版「シャルトル幻想」1990年
他
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