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(36)授業を「オンライン」でやることの意味 〜学習と生きる力

 大学の秋学期が始まり、自分で言うのもなんですが、去年よりオンラインでの授業のやり方が良くなってきているというか、何をすれば良いのかが分かってきている気がします。
 来週からは対面での授業になるので、すごく楽しみです。

 が、ここで、もう一度立ち止まって、現状を再認識してみようと思いました。というのも、大学の授業で、毎回出欠確認もかねて感想を書いてもらっているのですが、今回2年生のある学生から、以下のような感想をもらったからです。

1 学生の感想

 この大学に入学してからほぼすべての授業がオンライン授業だったので、今回のようにいろんな方々と触れ合えるような機会はそうなかったのでとても有意義な時間だったと感じました。また、初めて交流する方もいる中で、即興で劇をつくるような0から1をつくるクリエイティブな活動は、今後自分が社会に出たときに大いに役立つと思うので、今後も積極的に授業に参加していきたいと思いました。
 実際にオンラインではできないことも対面であれば可能だと思いますし、対面だからこその利点もあると思います。そういった意味でも次週からの対面授業には大いに期待すると同時に楽しみでもあると感じました。

 この学生は少なくとも1年半、大学生活の40%位をオンラインで過ごしたわけです。今の学生たちの想いが込められた感想だと思いました。

 また別な学生はこのような感想を出してくれました。

 私はこのような寸劇を行う授業をしてこなかったので、オンライン授業の中で本日は最も活動した回だと思います。

 「かわいそう」と言ってしまうのは簡単だし、実際そう思わない部分もないわけではないですが、そう言ってしうことで、私は思考を止めているようなモヤモヤしたきもちになりました。だから、ここまで行ってきたこと、考えたことなどを再認識(再確認)する必要があると思い、noteにメモしておこうと考えました。

 オンラインで授業をするのは「オンラインでやること」が目的ではないし、「授業でやっていることを配信すれば良い」ということでもありません。ましてや「やってる感」を出すための言い訳でもありません。
 もちろん授業によって「何をするのか」というのはそれぞれ違うと思いますが、「学生(児童・生徒)に伝えたいことは何か、感じてほしいことは何か、何を学んでほしいか」という根本的なことを対面の時以上に意識してに進めて行く必要があります。

 多くの先生方が頑張っていて、試行錯誤しているのは分かるし、「このままで良い」と考えているとは思いません。ただ、緊急事態宣言が解除され、「もうすぐ普通に授業ができる」ような気がするからこそ、ここまでの努力を横に置いといて、目先の「やりがい」のあることに思考を集中していしまうような気がするし、自分もそうなる自信(?)があります。
 「もとの状態に(100%ではないにしても)戻れる!」と感じてしまうと、惰性ではないですが、コロナ前に培ってきたものから授業することは目に見えているし、もとのやり方でやろうとするはずでず。すると、もう一度オンラインでしか授業が出来なくなった時に、多少はスムーズに授業を進められるとしても、学生が辛い思いをするという、同じ失敗をくり返しかねないのではないでしょうか

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2 同じ失敗をくり返す?

 同じ失敗をくり返す、辛い思いの人を増やす、それは本当に悲しいことだと思います。

 なぜ同じ失敗をくり返しかねないか。
 自分自身のことをふりかえっても、「オンラインだからここまでやれれば良いか」「オンラインだからこんなもんだろう」と思ってしまうことは何度もあった。特に最初の頃は「オンラインでは絶対無理!」と考えることすら放棄していたときがありました。

 また、対面の時は「やれば分かる」ということに依存していた部分もあるし、「大切なことは授業に(ワークショップに)参加すれば分かる」と思っていて、「大切なことは何か」というのをちゃんと言語化していなかったこともあります。説明しにくいというのはあるんですが、それは言い訳だなぁとも思います。

 ところが、コロナ禍になり、オンラインで授業(ワークショップ)をやらなくてはならなくなったため、最初は「何をやろう」「どうしよう」(言い方は悪いですが「どうやってお茶を濁そう」と考えていたときさえあったかもしれないです)ということばかり考えていました。
 つくづく人間は楽な方に流れていくものだと思います

 しかし、このマガジンを書くことになったきっかけでもありますが、ある時「このままの状況が続いていくとしたら、いつか立ち行かなくなる。自分の仕事がなくなるだけならまだしも、小学生から大学生、一般の人も含め、演劇的な活動をしなくなる、演劇的な思考をしなくなる、演劇的な共同作業をしなくなるというのは、その人たちにとってとても不幸なことで、それは自分一人の問題ではない」と気づきました。

 何となく「演劇って良いよね」と思っていたことを、「何が」良くて、それを伝えるために対面では「何をやっていたか」、それも一つのゲームについてではなく、そのゲームでは参加者は何を感じていたのか、どのように楽しんでいたのかということを考えました。そして、それをオンラインでもやるためには「何をすべきなのか」「どんな風になれば良いのか」ということについて、すごく考えました。
 私の場合、例えば、鬼ごっこのドキドキ感を出すためにはどうすれば良いのか?初対面の人同士がなるべく低いハードルであいさつしあうためにはどうすれば良いのか、グループダイナミクスを生むためにはどうすれば良いのか、というようなことです。
 不幸中の幸いか、仕事が減って考える時間はたくさんあったので、書ききれない多くのことを(忘れてしまったことも多いけれど)考えたと思います。

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3 「漠然としたどうしよう」から「小さなどうすれば」へ

 この思考の途中で、「何をやろう」「どうしよう」(どうやってお茶を濁そう)と考えていた時は、漠然と(ぼんやりと)「対面と同じことをするにはどうした良いんだろう」「(私の場合)身体を使えないなら、実際に手を繋いだりできないから、いろんなことができないなぁ」「脚本を読むくらいなら、オンラインでもできるかなぁ」というようなことを考えていたと気づきました。

 でも、そんな大局から考えても分かるはずはなく、もう少し小さなところで、「あれを伝える(感じてもらう、状況になる、エネルギーを生む)ためにはどうすれば良いのか」というように考え方がシフトしたときに、ぱぁっと道が開けたように感じたのです。
 それは本当にある瞬間です。本を読んで気づいたり、人から話を聞いて「なるほど」と思うことは多いですが、考えに考え、その結果ある結果にたどり着くことは、とても気持ちの善いものです。それが先程の「鬼ごっこのドキドキ」だし「グループダイナミクス」を考えることでした。

 この「考えがあるところに至る」ということは自分にとって非常に大きいことでした。コロナのようなことは起こってほしくはないですが、コロナのおかげで思考を一段階深いところに持っていくことができて、そのことは、対面でもオンラインでも、どちらにとってもためになることだと、またしばらくして気づきました。

4 「オンラインで授業をする」時に、もう一つ考えたいこと

 話は少しずれますが、オンラインで授業をするというのは、「授業をする」ということはもちろんですが、その他の学校で行われることも担っていくべきだと、私は個人的には考えています。

 「学習する」というのはもちろん大切ですが、例えば小学校低学年であれば「生活科」に代表されるように、文字通り「生活していくための術を」を学校でも学びます。高校や大学においては、学校の教育目標(スローガン?売り文句?)に「生きる力」や「コミュニケーション」などの言葉があるところは少なくありません。
 とするならば、完全にオンラインであっても、どこかの部分で、いわゆる「科目の学習」をするところではない部分を担保しなくてはならないと思う。

 単に運動会をやれば良いとか、クラブ活動、修学旅行、サークル活動をすればよいということではありません。いわゆる「学習以外の活動」をするとき、おそらく先生や学校であれば「なぜ修学旅行が大切なのか」ということを保護者なり誰かに説明しているはずです。いちいち聞かれないとしても、聞かれた時にどんな先生でも説明できると思います。
 その説明している部分、つまり、大切だと考える部分のをオンラインでどうやるかを考えるべきだと思うのです。そして、そのがいわゆる「学習」の時間に担保できないのであれば、何とかして別な方法で実現(担保)するべきだと、私は思います。

 例えば文科省は、学習指導要領の中のクラブ活動の部分で、以下のように述べています。

 クラブ活動を通して,望ましい人間関係を形成し,個性の伸長を図り,集団の一員として協力してよりよいクラブづくりに参画しようとする自主的,実践的な態度を育てる。

 「オンラインでやるには限界がある」、それはその通りだと思います。ただ、それであきらめてしまっては、一番辛いのは子どもたちです。それをどうやって実現するのか、私にも分かりませんが、でも考え続ける必要はあるのではないでしょうか。

 1時間の授業でまるまるやれ、ということではないし、ましてや半期や1年を通してやれというものでもないです。もしかしたら1日10分のことかもしれません。
 先生方は、それぞれの授業の工夫を、それぞれなさっていると思います。それぞれの先生が、それぞれのやり方で良いと思います。ただ、オンラインでやれることを、「何を大切にしているのか」というところに立ち返って、少しずつ考えていってほしいなぁと思います。もちろん私もがんばります!

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 「第6波に備える」というのは、医療関係の話だけではないでしょう。飲食業の方たちも、動物園で働く方たちも、私たちのような半分演劇半分教育の様な人たちも、皆が幸せになれるように考え続ける必要があります。

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