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アクロバットにつぐアクロバット―書評『街場の芸術論』内田樹

 そのひとのものを読んでいると、にわかにじぶんのなかの「何か」が活性化され、心もからだも元気が湧いてくる。そういう書き手がみなさんにはいらっしゃるでしょうか。

 内田樹は、わたしにとって、まさしくそのような存在。本棚からその著書を適当に手に取り、適当に開いたページを流し読みしてみる。ただそれだけで、わたしの精神の器官はうずきだし、その知性をすこしでも吸収しようと「蠕動運動」をはじめます。

 先々月、青幻舎という出版社から、『街場の芸術論』という1冊が刊行されました。2日ほどまえから別の本と並行して読みはじめて、いま、ちょうど真ん中あたりまで読み進めました。

 が、期待をうらぎらないあまりのおもしろさに、いてもたってもいられず、読了する先からここに感想を書きはじめているしだいです(考えてみれば、すべてを見とおすまえにそのことについて語りだせるというのは、読書の特権かもしれませんね。映画や音楽といった時間芸術ではなかなかこうはいかないでしょう)。

 内田樹の本、みなさんはなにか手に取ったことがあるでしょうか。共編著もふくめると、その数はゆうに100冊を超えますし、平成・令和と、大学入試の「定番出題筆者」でありつづけているので、どこかでその文章に触れたことのあるかたも多いかもしれません(ちなみに、昭和の「定番出題筆者」は小林秀雄でした。たぶん)。

 内田樹の魅力は枚挙にいとまがありませんが、ここにひとつ挙げるとすれば、その「定義」のうまさがあります。

 たとえば、本書の序論には「民主主義」について書かれた文章がおさめられていますが、そこで内田樹は、「主権者」をつぎのように定義しています。いわく、「自分の個人的運命と国の運命の間に相関関係がある(と思っている)人間」と。

 あるいは、「よい映画の対極」にある映画(つまり「つまらない映画」)についても、じつにわかりやすい、たくみな定義をしています。いわく、「よい映画の対極にあるのは『その映画を観たことをできるだけ早く忘れたくなる映画』ではない。『その映画を観たことを忘れるためにいかなる努力も要さない映画』である」と。

 その書き手の説明能力の高さというのは、しばしば、こうした言葉や概念の「定義」のしかたに如実にあらわれます。
 もちろん、その「定義」のいちおうの正解は、辞書や百科事典の記述にあるといえるでしょう。ただ、それが読者の「腑に落ちる」かといえば、かならずしもそうとはかぎらない。

 その「定義」がだれかの胸に突き刺さるためには、辞書的定義をはるかに逸脱しながら、にもかかわらず、そうした辞書的定義よりもそのものの本質にいっそう接近している、という困難な「アクロバット」が必要になります。
 そして内田樹は、そんな困難なあらわざを、なんの苦もなくやすやすと、次から次へとやってのけてみせるのです。わたしが彼を、希代の文章家であると信じるゆえんがここにあります。

 本書は、「芸術論」と冠してあるとおり、映画や文学や音楽についての文章がまとめられています。語られる対象は、三島由紀夫、小津安二郎、宮崎駿、村上春樹、大瀧詠一、キャロル・キング…そして巻末には、劇作家の平田オリザとの対談もおさめられています(わたしはまだ読んでませんが)。
 これら固有名詞のなかに、ひとつでも「引っかかるもの」があるかたには、ぜひ手に取って損のない一冊(あるいは「得」しかない一冊)になっているとおもいます。

 ちなみに、いちどだけ内田樹の「ご相伴にあずかった」(宴席をともにした)ことがあります。該博な知識をまるで「ものを書いている」かのようによどみなく語りだすそのさまに、やっぱり内田センセイは内田センセイだった…!といっそう尊敬の念をあらたにしました。

 緊張しまくって、わたしはほとんどしゃべれなかったんですけどね…笑


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