#風姿花伝
『演技と身体』Vol.53 世阿弥『能作書(三道)』を読み解く
世阿弥『能作書(三道)』を読み解く『能作書』(あるいは『三道』)は、世阿弥の中期の書で、風姿花伝の第六 花修で述べられていた書き手の心得をさらに具体的に書き記したものである。(花修の内容はVol.27世阿弥『風姿花伝』を読み解く② 実用編を参照)
主に書き手向けのものと思われるが、書き手だけでなく役者が留意すべきことも読み取れるのではないかと思う。基本的には能の場面展開を前提とした内容ではあるが一
『演技と身体』Vol.46 世阿弥『至花道』を読み解く②
世阿弥『至花道』を読み解く②前回に引き続き世阿弥、中期の伝書『至花道』を読み解いていきたい。
世阿弥の伝書では前期の作『風姿花伝』が最も有名だが、『風姿花伝』は父・観阿弥の教えを書いたものとも言われているので、世阿弥の独自性が出てくるのは中期の作以降とも言える。そして、世阿弥の特徴はその抽象性にあると思う。能の演目でも、世阿弥が作った作品は人物の想いが非常に抽象化されたイメージを纏っている感じがす
『演技と身体』Vol.45 世阿弥『至花道』を読み解く①
世阿弥『至花道』を読み解く①今回は世阿弥の中期の伝書『至花道(しかどう)』を読み解いていく。
前回紹介した『音曲声出口伝』と比べると概念的なところも多いが、それだけに汎用性が高い。世阿弥が57歳の時の作で、世阿弥の中でのテーマが“花”から“幽玄”へと移ってゆく時期である。
花から幽玄へ
“花”から“幽玄”へ。というのはどのような変化なのだろうか。
それが最もよく表れているのが『至花道』の中の「
『演技と身体』Vol.29 問答条々
問答条々今回は、『風姿花伝』の「第三問答条々」の真似をして、これまでにワークショップの参加者から頂いた質問に答える形式で書いていきたいと思う。
イメージとのギャップ
答。この問題には色んな側面があるので、一概には言えないが、考えられる解決策をいくつか挙げてみたいと思う。
一つには、「ボディ・スキーマ」を開発していくことだ。「ボディ・スキーマ」については第6回の記事で詳しく書いたが、改めて説明し
『演技と身体』Vol.28 世阿弥『風姿花伝』を読み解く③ 秘する演技
世阿弥『風姿花伝』を読み解く③ 秘する演技「秘すれば花なり」。非常に有名な言葉であり、「芸術は爆発だ」「人には人の乳酸菌」に並んで僕の座右の銘でもある。今回はこの言葉から派生させて“秘する演技”について書いていこうと思う。
花伝書における秘する花
まず風姿花伝の中でこの言葉がどのように使われているのか見てみよう。
観客にとって「ここが花だな」とはわからないことが役者にとっての花であり、観客に
『演技と身体』Vol.27 世阿弥『風姿花伝』を読み解く② 実用編
世阿弥『風姿花伝』を読み解く② 実用編前回の記事では、世阿弥『風姿花伝』の中から芸道者の心構えについて述べられた記述をピックアップして解説したが、今回はより実用的な部分にフォーカスしたいと思う。
強き・幽玄、弱気・荒きを知ること
演技には〈強い演技〉・〈優美な演技〉、《弱々しい演技》・《荒っぽい演技》があるという。〈強い演技〉・〈優美な演技〉は良い演技で、《弱々しい演技》・《荒っぽい演技》は戒
『演技と身体』Vol.26 世阿弥『風姿花伝』を読み解く① 演技者の心構え
世阿弥『風姿花伝』を読み解く① 演技者の心構え『風姿花伝』は世阿弥の伝書の中でも最も有名だろう。1400年に書かれたものに世阿弥自身が少しずつ追記していって完成したものだ。
『風姿花伝』は世阿弥の伝書の中では最初期のものであり、世阿弥自身の考えというよりは、父・観阿弥の教えを書き記したという側面が強いようだ。とはいえ、後期の世阿弥の論の礎となっていることは間違いなく、金言に満ちている。
今回は、『
『演技と身体』Vol.18 脚本の読み取り② 書かれていないことについて
脚本の読み取り② 書かれていないことについて前回は「書かれていることについて」と題して、脚本の読み取りについての考えを書いたが、今回は「書かれていないこと」というテーマで書いていく。まず、前回も述べたことだが、脚本の読み取りは自由で良いと思う。その上で、これから書いていくことが何かヒントとなれば幸いである。
イメージのレイヤーで見る
多くの役者がやってしまいがちなことの一つに、「言葉を言葉通り