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『演技と身体』Vol.26 世阿弥『風姿花伝』を読み解く① 演技者の心構え

世阿弥『風姿花伝』を読み解く① 演技者の心構え

『風姿花伝』は世阿弥の伝書の中でも最も有名だろう。1400年に書かれたものに世阿弥自身が少しずつ追記していって完成したものだ。
『風姿花伝』は世阿弥の伝書の中では最初期のものであり、世阿弥自身の考えというよりは、父・観阿弥の教えを書き記したという側面が強いようだ。とはいえ、後期の世阿弥の論の礎となっていることは間違いなく、金言に満ちている。
今回は、『風姿花伝』の中から現代の演技にも通じるポイントを取り出して僕の解釈を混ぜながら論じてみたいと思う。あまり順番にとらわれず、自由に読みとっていきたい。今回はとりわけ、演技者・芸術家としての心構えにまつわる箇所を取り上げる。

芸能は幸福の元

「そもそも芸能とは、諸人の心を和げて、上下の感をなさむこと、寿福増長の基、遐齢延年の法なるべし」(奥儀讃歎云)

『風姿花伝』

これはおそらく観阿弥の言葉だろう。「芸能とは幸せを増す(寿福増長)元であり、長生きの方法なのである」と述べている。芸能は一朝一夕では成らない。長い時間をかけて完成してゆくものである。それが自分の幸福と結びつくものでなければ続けられないし、人を幸せにするものでなければ栄えることはできない。
注意しなくてはいけないのが、ここでいう幸福には精神的なものばかりでなく、経済的な繁栄の意が含まれているということである。世阿弥は徹底してリアリストである。理想を追究しつつ、常に現実的な問題から出発しているのだ。そこで、世阿弥にとって問題は、いかにして観客に迎合することなく受け入れられるかということであった。世阿弥はこの直後に「経済的配慮を持てと言ったからとて、世俗にとらわれて打算にふけっていたならば、芸道は退廃するだろう。芸そのものに浸りきることが世俗的な利益に恵まれる要件なのだと信じて、芸に励むべきである」という旨を述べている。
世の中に迎合していると、一時は栄えるかもしれないが芸が退廃して最終的には経済的にも衰えてしまうことになる。長く栄え続けるためには、「初心を忘れず」に芸を磨き続けることが大切だというのである。
このように衰えることのない栄華を世阿弥は「真(まこと)の花」と呼んだ。

花とは

心より心に伝ふる花なれば、風姿花伝と名付く。(奥儀讃歎云)

『風姿花伝』

「花」という言葉は『風姿花伝』の中で最も多く出てくる言葉であるがどのような意味で使われているのか整理しておこう。          

そもそも花と云うに、万木千華において四季折節に咲くものなれば、その時を得て珍しきゆゑに、翫(もてあそ)ぶなり。申楽も人の心に珍しきと知る所、すなはち面白き心なり。花と、面白きと、珍しきと、これ三つは同じ心なり。(第七別紙口伝)
主の心には随分花ありと思へども、人の目に見ゆるる公案なからんは、田舎の花・藪梅などの、いたづらに咲き匂はんがごとし。(第三問答条々

『風姿花伝』

例えば桜の花は毎年咲くが、それが楽しめるのは春の短い間だけである。一年の中で見れば桜の花が咲くのは非常に珍しいことだ。人は珍しいものを見たら面白いと感じる。だから「花」とは、珍しさに伴う面白さのことだと言える。また、「花」とはあくまで観客に見える珍しさ・面白さのことであるという点は重要だ。演技者の内部でいかに充実した演技ができていても、観客に花として見えるような工夫がなければ「田舎の花・藪梅などの、いたづらに咲き匂はんがごとし」となってしまう。つまり「花」とは見え方であり、結果でしかないということである。しかも、「花」にも「時分の花」「真の花」があるのだという。

「時分の花」と「真の花」

時分の花・声の花、幽玄の花、かやうの条々は、人の目にも見えたれども、その態より出で来る花なれば、咲く花のごとくなれば、またやがて散る時分あり。(中略)真の花は、咲く道理も、散る道理も、心のままなるべし。されば久しかるべし。(第三問答条々)

『風姿花伝』

演技の修練を続けてやり続けてさえいれば、いずれか良い時期がやってくる。しかし、それは木々や植物が時季を得て一時的に花をつけるようなものであり、時季が過ぎれば花も散るというのが道理である。このような花を「時分の花」と云う。本当に良い役者というのは「真の花」を身につけた役者であると世阿弥は云う。では「真の花」とはどのようなものなのだろう。

物数を究め尽したらん為手は、初春の梅より秋の菊の花の咲き果つるまで、一年中の花の種を持ちたらんがごとし。何れの花なりとも、人の望み、時によりて持ち出だすべし。物数を究めずは、時によりて花を失ふことあるべし。(第七別紙口伝)

『風姿花伝』

「時分の花」が一時的なものなのだとしたら「真の花」はずっと咲き続けるものだと考えられるが、それは決して同じ花が咲き続けることではない。どんな花も咲けば散ったり枯れたりするものであり、一つの花が咲き続ける道理はない。しかし、一年を通して花の咲かない時期というのはない。いつも何かしらの花が咲いているものである。つまり「真の花」を持つというのは、一つの芸風に拘らずに種々の芸風に通じ、それぞれの時季に合わせて都度花を咲かせるということなのだ。また中世の無常観を考えると、自分が常に変化し続けることで常に別様の花を咲かせるのだとも解釈できる。これは「初心忘るべからず」という世阿弥の有名な言葉にも見て取れる。「初心」とは芸に未熟な状態を言うが、「初心忘るべからず」とは未熟だったころを思い出せという意味ではない。一つの芸風を究めたなら、次に目指すべき芸風が見えてくる。この時、人はその次の芸風においての初心者となる。つまり、「初心忘るべからず」とは、一つの芸風に満足せずに常に次を究めるべく変化を続けなければいけないという意味なのだ。

十体に渉ること・わが風体を得ること

能に十体を得べきこと。
(中略)
能も住する所なきを、まづ花と知るべし。住せずして余の風体に移れば、珍しきなり。(第七別紙口伝)
あるいは諍識、あるいは得ぬゆゑに、一向の風体ばかりを得て、十体に渉るところを知らで、他の風体を嫌ふなり。これは嫌うにあらず。ただ叶わぬ諍識なり。(奥儀讃歎云)

『風姿花伝』

「真の花」を得るためには一つの芸風に住することなく、またやたらと他の芸風を嫌うことをせずにとにかくいろいろな役どころをやってみることが大切だということがわかる。他の芸風を嫌うのはそれは単なる僻み(諍識)だったり、単に自分ができないゆえなのである。
しかし、ただ様々な芸風に渉るだけではダメなのである。様々な芸風を究めて客の要求に応じるだけでは打算的で迎合的な芸に陥ってしまうことになる。様々な芸風を究めつつも、同時に自分の芸風というものを持っていなくてはいけないのだ。

わが風体の形木の疎からむは、ことにことに、能の命あるべからず。これ弱き為手なるべし。わが風体の形木を究めてこそ、あまねき風体をも知りたるにてはあるべけれ。あまねき風体を心に懸けんとて、わが形木に入らざらん為手は、わが風体を知らぬのみならず、よその風体をも、確かには、まして知るまじきなり。(奥儀讃歎云)

『風姿花伝』

まず自分の芸風をしっかり持った上で色んな役どころをやるから珍しさ(=花)があるのである。色んな役どころに通じようとばかりして自分の芸風を疎かにしてしまうと、それはどの芸風にも通じていないのと同じになってしまうのだ。
しかし、いきなり自分の芸風を決めるというのはいかがなものだろうか。ある程度いろいろな役柄をやった上でなければ自分の芸風は見えてこないのではないだろうかとも思う。
実はこのあたりについては後期の伝書『九位次第』に引き継がれて、より精密に体系化されることになる。ひとまずここでは、多様な役柄に挑戦する中で自分の芸風を見つけていくことが大切だというくらいにしておこう。
いずれにしても肝要なのは、研究し工夫を重ねることだ。また妙な争い心(諍識)を持たずに、色んな人から学びとることである。

稽古は強かれ、諍識(じょうしき)はなかれ

位おのれと上れる風体あり。ただし稽古なからんは、おのれと位ありともいたづら事なり。
(中略)
態(わざ)を尽し、工夫を究めてのち、この花の失せぬ所をば知るべし。この物数を究むる心、すなはち花の種なるべし。(第三問答条々)
工夫と達者を究めたらん為手をば、「花を究めたる」とや申すべき。(奥儀讃歎云)
稽古する所の因疎かなれば、果を果たすことも難し。(第七別紙口伝)

『風姿花伝』

繰り返し述べられているのは、ただ才能があれば良いとかただ演技が上手ければ良いということは決してなく、研究を尽くし工夫を重ねることが「真の花」を得る手立てであるということだ。才能があっても工夫がなければ、それは「時分の花」に終わってしまう。また、芸が達者であってもよくある風に演じるだけでは珍しさがなく、すぐに飽きられてしまう。

下手は、元より習い覚えつる節博士の分なれば、珍しき思ひなし。上手と申すは、同じ節懸りなれども、曲を心得たり。曲と云ふは、節の上の花なり。同じ上手、同じ花にても、無上の公案を究めたらん、なほかつ花を知るべし。(第七別紙口伝)

『風姿花伝』

下手な役者は、ただ台本に書かれている通りにやるだけなので、面白味がない。研究を尽くした上手な役者は同じ台本で書かれていることをやるにしても、その上に花を咲かせることができる。ここで大事なのは、書かれている通りにやった上でなおその上に趣きを載せることができるという点だろう。役者の中には自分の風体を出そうとして書かれていることを無視したり、余計な動作・セリフを付け加えようとする者もいるが、それは上手いとは言わないのである。あくまで書かれていることを書かれている通りに演ずるところで自分を表現できるのが上手だというのである。

稽古は強かれ、諍識はなかれ

『風姿花伝』

芸を究めるというのはあくまで自分を変化させてゆくことであって、妙な争い心があっては上達は望めない。

もし、よき所を見たりとも、われより下手を似すまじきと思ふ諍識あらば、その心に繋縛せられて、わがわろき所をも、いささか知るまじきなり。
(中略)
「われはあれ体にわろき所をばすまじきものを」と慢心あらば、わがよき所をも真実知らぬ為手なるべし。
(中略)
上手は下手の手本、下手は上手の手本なりと、工夫すべし。
(中略)
稽古に位を懸けんは、かへすがへす叶ふまじ。位はいよいよ叶わで、あまつさへ稽古しつる分も下がるべし(第三問答条々)

『風姿花伝』

争う気持ちがあると、自分の良いところと悪いところが見えなくなる。自分より下手な人からも上手な人からも学ぶべきことがあると言うのだ。
また、稽古は「上手くなろう」とか「売れたい」という気持ちでやると、それもやはり上達の妨げになるどころかこれまでの稽古までが無駄になってしまうという。研究とは成果を期待して行うものなのではなく、そのプロセス自体に夢中になり、没頭することなのであろう。「花」は結果でしかないのだ。
初めに芸能は寿福増長の元だと述べたが、ここまでの内容を併せると、演技について研究し工夫することに喜びを感じることができるというのは、役者にとって重要な資質のひとつなのだろう。逆に才能や感覚ばかりを信じて研究や勉強を避けようとする態度は最も戒めるべきであり、長い目で見ればそういう人は続けてゆくことができないのだろう。

以上、今回は『風姿花伝』の中から、特に演技者の心構えにまつわる箇所を取り出して論じた。だが、世阿弥の真骨頂はこうした理想に対してどうアプローチすべきかという具体的な方法論にまで 言及している点である。先にも述べたように世阿弥はリアリストなのだ。
次回は『風姿花伝』から読み取れる具体的な演技の技術について論じたいと思う。

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