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『演技と身体』Vol.29 問答条々

問答条々

今回は、『風姿花伝』の「第三問答条々」の真似をして、これまでにワークショップの参加者から頂いた質問に答える形式で書いていきたいと思う。

イメージとのギャップ

問。自分の中でイメージした演技と実際に外から見える演技のギャップに差がある。これにはどう対処したら良いか。

答。この問題には色んな側面があるので、一概には言えないが、考えられる解決策をいくつか挙げてみたいと思う。
一つには、「ボディ・スキーマ」を開発していくことだ。「ボディ・スキーマ」については第6回の記事で詳しく書いたが、改めて説明しよう。
自分の体に対する感覚には「ボディ・イメージ」「ボディ・スキーマ」の二つがある。「ボディ・イメージ」とは、頭の中での自分の体のイメージであり、「ボディ・スキーマ」というのは、実際の自分の体を感知する機能のことである。
通常この「ボディ・イメージ」と「ボディ・スキーマ」には差がある。多くの人が、思春期に鏡を見るたびに自分の顔や体型にがっかりした経験を持つのではないかと思うが、それは思春期には特に「ボディ・イメージ」と「ボディ・スキーマ」の落差が大きくなるためだと思われる。
この差は演技においても重大な問題となる。「ボディ・スキーマ」を高めることによって、自分の体の動きがどうなっているのか正しく把握することができるようになり、イメージとのギャップを埋められるようになるのではないかと思う。
では、「ボディ・スキーマ」を高めるにはどうしたら良いか。その一つは、とにかく自分の体に注意を向けることだ。今自分の足の位置がどこにあるのか、さらに細かく小指の位置や向きがどうなっているのか。そうやって体を意識の中で細かく切り分けていき、それぞれの部位の情報を脳に把握させてゆくことによって「ボディ・スキーマ」は向上する。
次に台詞回しについてはどうだろうか。これにはいろいろな技術もあるので、第25回の記事を参照していただけたらと思うが、やはり台詞を言う時の自分の体の状態や内臓の状態に注意を払ってみると、口のあたりばかりが使われていて、喉の方や内臓の方に使えていない箇所があることに気が付くかもしれない。使える部位が多くなれば、その分細かな調整もしやすくなるだろう。
さらに、喋っている時というのは自分で自分の声を聞いている状態でもある。この声が自分でよく聞こえているかどうかも大切だと思う。身体論的に言うと、これには自律神経系が大きく関わっており、あまり細かくは書ききれないのだが簡単に言うと、過度な興奮状態や緊張状態、自閉状態の時は人の声が聞き取りにくくなる傾向がある。だから、余計な興奮や体の緊張を取り除くことで、イメージとのギャップは埋めやすくなるのではないだろうか。

心と体をつなぐこと

問。感情と身体が結びつかず、固まって動けなくなってしまうことがあるのはどうしてか。

答。これは物事の本地を訪ねればわかることだ。植物を見るとき人は花の部分に目を惹かれるものだが、花が咲くのは根が水や養分を吸収し、葉が太陽光を受けて光合成をするからである。感情と身体が結びつかないという時、感情が顔や頭に宿るものだと考えていやしないだろうか。
顔が身体全体に占める割合というのはざっと見ても6分の1程度しかないのだが、どういうわけか演技となると顔とその周辺だけを一生懸命に動かそうとする人がいる。しかし、それは花を咲かせようとしてつぼみに働きかけて一生懸命に開かせようとしているようなものだ。感情の根は内臓であり、感情の葉は皮膚やその他の感覚器官である。そして根と葉と花を合わせて一つと考えなければいけない。
すると意識としては、胴体で受け、胴体で動くということが大切になる。胴体の動きは自然と腕や手先、顔や頭にまで伝わる。大きな箇所を動かせばそれに伴って先端が動くというのは道理である。
感情とはそもそも身体の働きなので、「感情と身体が結びつかない」という時はそもそも感情が起こっていないのがほとんどだろう。
しかし、感情の反応として身体が固まってしまうということもある。これは「凍りつき反応」という生物の防衛反応の一種だ。基本的には外敵や危機に遭遇した時のような具体的な状況で起こる反応なのだが、人間の場合はそうでなくても自分の状況に無意識に危険や不安を感じていると起こってしまう
この時もやはり、人の声が聞こえづらくなってしまっているので、逆に相手の声をよく聞くことを意識すれば、自然とこの状況から抜け出すことができるかもしれない。

自分の表現

問。自分の表現とは何か。また、自分のイメージにとらわれてしまっていないか。

答。これは明確にどうのこうの言うことが難しいテーマではあるが、参考になりそうな話として、まず世阿弥の論を引こう。
世阿弥は自分の表現を「有主風」、つまり主体性の有る風体と表した。だからまず自分の表現とは自ら主体性を持って演じるということだと言える。
しかし、主体性とは自分で勝手にこさえられるものでもない。自分勝手に作り上げた主体性は主体性ではなく、それは偏狭なイメージにとらわれた演技ということになる。この違いは微妙だが重要だ。
ともかく自分の表現とは、自分で予め決められるものではなく、長い時間をかけて積み上がっていくものなのだ。
能では二曲三体を究めて後に有主風の芸位に上るという。二曲とは歌と舞という基礎的な身体能力を使ったものである。そして三体とは、すべての役柄に通じる基本的な役のことであり、三体を究めるとはつまりいろいろな種類の役柄に通じるということだ。
これをすっ飛ばしていきなり主体性を持とうとするとどのような弊害があるか。それは、経験も十分でないうちから自分の芝居をこうと決めてしまうことで、自分の演技の可能性を閉じたものにしてしまうことである。
まずできるだけ色んな役柄を演じてみた上で、その広い可能性の中から自分の風体というものを選ぶのが主体性であり、最初から自分というものを決めてかかるのは主体性ではなく独善性である。
というのも、自分の好きな演技が自分に合っているとも限らないのである。色んな役柄をやって都度色んな人に意見を聞く中で、自分の長所や短所がわかってくる。その積み重ねの中で自分の表現は生まれるのではないだろうか。
また、自分のイメージにとらわれることについて。それ自体はある程度避けられないものだと思うが、問題なのはそのイメージが単調だったり退屈だったりする時だ。イメージというのは無から生じるものではなく、その人がそれまで見てきたものや経験してきたことに影響される。つまり、イメージが単調だということは、これまでありきたりなものしか見てこなかった結果であると言える。日々色んな表現に触れ、影響を受けることが大切だ。
イメージにとらわれることを恐れてイメージを持たずに演じることはむしろ悪いことだと思う。イメージは持つべきである。役者として重要なのは、そのイメージが演出家のイメージと食い違った時や別のイメージを提示された時に、自分の中にそれに応じるものがあるかどうかということではないだろうか。自分のイメージが却下された時点でもう何も出てこなくなってしまうことが一番問題である。あれがダメならこれを試すという、イメージの多様性を自分の中に保っておく必要がある。そのためには、人の演技を日頃からよく見て研究しておくことが重要だ。
また、役者自身も演技に対して、芸術に対して、世の中に対して、人生について、命について、何某かの考えを持っておくことも大切だと思う。作品を通して伝えたいことというのは大抵、演出家や企画側の方にまずあるのが普通だが、だからといって役者が持っていなくても良いというわけではない。表現をするからにはそれを通して伝えたいことがあって然るべきである。それは必ずしも他人に言わなくても黙っていればよいのだが、やはり自分なりの考えを持っている役者と持っていない役者とでは、その役を演じるということに違いが出てくる。それは監督の意図とは別に、自分の中に秘めておくべきものだ。(ちなみに「人を笑顔にしたい」とかは自分の考えには入らないと考えた方が良い。それは人間の根源的な欲求であり、あなた独自の考えとは言えないからだ。)
演技をするということは良くも悪くも自分の人間性がその役の中に投げ込まれて、現れてしまうということだ。しかも自分に都合の良いところだけ現れるというわけにはいかず、自分の意識も無意識も、肉体も性格もすべてが現れる。それはどんなに自分を押し殺して演じても出てくるものだと思う。何も出てこないのであれば、それはそもそも演技ではないか、自分が何もない人間だという証明に他ならない。
簡単にまとめると、自分の演技を研究し、他人の演技を研究し、色んな物事に心を動かして日々の経験を豊かにし、色んな物事についてよく考えるという、非常に基本的な結論に落ち着くことになる。


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