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『演技と身体』Vol.6 ボディ・マップと再び脳の可塑性〜常に揺らぐ「私」とあなたがこの記事を読まない理由〜

ボディ・マップと再び脳の可塑性〜常に揺らぐ「私」とあなたがこの記事を読まない理由〜

脳の中の地図

少し哲学的な問いから始めてみよう。
「私」とはなんだろうか?
私とはこの肉体のことだろうか。あるいは私の魂なるものが私の体に住まっているのだろうか。
これは役者にとって、とりわけ重要な問いに思われる。役に入り込む時に、「私」を持ち込むべきかという論争はしばし聞かれるものであるし、そもそもその役は私とは別の存在なのかという疑問もある。
これは永遠のテーマの一つなので、哲学的な議論はまた別の機会に詳しく取り上げるとして、ここでは哲学を脱して身体論的な立場からの答えを提案しよう。
「私」とは、脳によって統合されたイメージである。
「私」というのは実体ではなくイメージであると言われるとピンとこない人もいるかもしれない。でも、例えばあなたの腸内に生息する100兆を超える数の細菌を「私」だとは感じにくい一方で、使い慣れた道具が「私」の一部のように感じられることがありやしないだろうか。
ここで重要なのは、「私」というのが固定的なものではなく、常に揺らぎ、縮小したり拡大したりするのだということだ。
脳には、自分の身体に関する地図がある。例えば、目を閉じて誰かに腕を触ってもらうとする。その時、目を閉じているのに触られているのが腕だと確信できるのはなぜだろうか。足を触られた時と腕を触られた時を区別できるのはどうしてだろう。それは脳の中の地図(ボディマップ)の中に、腕を触られると反応する箇所があるからだ。
このボディマップに描かれている範囲(イメージ)こそが「私」なのである。

ボディ・スキーマが大事!

では、このボディマップはどのように作られているのだろうか。それは主に、ボディ・スキーマとボディ・イメージという二つの性質によって構成されているらしい。
ボディ・イメージというのは、自分の身体に対して脳で抱いているイメージであり、コンプレックスを生み出す原因でもある。
ここで取り上げたいのはボディ・スキーマの方だ。ボディ・スキーマというのは、言ってみれば自分で自分の体をスキャンするような機能である。このボディ・スキーマが正しく機能していないと、脳のボディ・マップが正しく描かれなくなり、自分の体を正しく認識できなくなってしまう。例えば、足の小指をタンスのかどにぶつけてしまうのは、脳が足の小指をスキャンできていないために、脳内の地図から小指が消えてしまっているからだ。するとその時、足の小指はもはや「私」のイメージから漏れ出れて、忘れ去られてしまっている。そしてぶつけた時に初めて思い出されるのだ。
僕も、右足の小指をぶつけることがよくあったので、足裏のストレッチなどをして足の小指のボディ・スキーマの回復に励んでいたのだが、そこで興味深いことがあった。ストレッチのおかげで小指の感覚は回復してきたのだが、右足の中指を触って伸ばしている時、なんとなく人差し指を触られている感覚がしたのだ。さらに、薬指を触ってみると中指を触られているような感覚になった。つまり、脳のボディ・マップがバグって右足の指との対応関係がずれていたのだ。
ボディ・スキーマは体の外や使う道具にも及ぶことがある。腕を広げ、上下左右に振ってみる。その範囲をペリ・パーソナルスペースと呼ぶ。ボディ・マップはこのペリ・パーソナルスペースにも機能するのだ。知らない人や嫌いな人が至近距離まで近づくと、直接体に触られなくても不快であるし、逆に好きな人には触れられなくても側にいるだけで身体が色々と反応したりもする。スポーツで秀でた選手はこのペリ・パーソナルスペースが人よりも広いために、相手の動きをより早く察知できるのだ。もちろん、役者としてもペリ・パーソナルスペースが広い方がきっといい。

イメージと現実の差を測る


このように、ボディ・マップが正しく描かれているかによって、身体の制御がうまくできるかが違ってくる。もう少し詳しく言うと、ボディ・スキーマ(脳が把握している実際の体の情報)とボディ・イメージ(脳が自分の体に対して抱いているイメージ)の差が大きいと、自分ではやっているつもりの動作ができていないということが起こるのだ。したがって、ボデイ・スキーマとボディ・イメージの差が大きい人は芝居が大袈裟過ぎたり小さ過ぎて伝わらなかったりということが起きやすい。

ボディ・スキーマを機能させる


では、どうしたらボディ・スキーマが正常に働くようになるのか。方法の一つは前回の記事で紹介した内観である。生活の中で視野に入りにくい身体部位ほど身体地図から忘れられやすい傾向にあるため、実際の目や心の目で視線を送るとそれだけでいくらか回復したりもするだろう。しかし、意識しにくいところは直接触りながら動かしてみるのがよい。
そうした方法は、深層筋や細かい筋肉にも有効だ。手先が器用な人というのは、つまり手の筋肉のボディ・マップが細かく描かれていて、細かい筋肉を別々に動かせる人なのだと言えそうだ。同じ原理で、表現力の高い人というのは、背骨や骨盤それ自体やその周りの筋肉を細かく調整できる人である。
さらに、この原理を顔の筋肉にも当てはめてみたらどうだろうか。「顔 筋肉」とググってみると、顔の筋肉を図説した画像が出てくるが、それを見ると顔の筋肉はせいぜい18種類である(ポケモンを覚えるよりもずっと簡単だ)。その画像にしたがって、それぞれの筋肉を触ってみる(フェザータッチするのがポイント)。それを続けていけば、一つの表情を作るのにそれぞれの筋肉が別々の仕事をして表現力は高まるのではないだろうか。

脳の変化は突然に!(だが、すぐにではない)


身体の変化というのはすぐに起こるものではない。だが、ある日突然起こる。ボディ・マップも、すぐに書き換えられる訳ではないため、最初のうちはやっていても効果を感じにくいかもしれない。しかし、継続しているとある日突然身体が軽くなる朝がやってくる。
これは第4回の記事で説明した脳の可塑性によるものなのだが、脳は徐々に変化していくのではなく、ある時突然処理の仕方を変えることによって新しい習慣を受け入れるのである。
というのも、脳は基本的には新しいことを嫌がり、現状に甘んじていたがる性格の持ち主なのだ。意外に聞こえるかもしれないが、考えてみればわかる気もする。
新しいことというのは不確定要素を孕む。不確定要素とはつまりリスクだ。脳は意識/無意識にかかわらず、自分の生存に有利な選択をする。現状というのは、ベストではないにしてもこれまで自分の生存を許してきた実績がある。だから、脳は不確定要素を含む新しい習慣よりも、現状を好むのだ。
このことは、多くの役者がこの記事を読んでくれない(涙)理由の一つでもあるように思う。つまり、演技論に倫理や身体論を持ち込んだものを避けたがるのだ。役者の多くは自分の感性を大事にしているだろうが、そうした人の多くは論理性を身に付けることによって感性が損なわれるのではないかと感じているようだ。少なくとも、自分の感性が変わってしまうのではないかと。しかし、ここまで読んでいれば、それが脳の持つ保守的な傾向によるものだというのがわかる。現状がたとえうまくいっていないとしても、それでも変化を拒み、現状に甘んじてしまうのだ。必ずしも論理を理解する必要はないが、変化を拒むのは表現者としてあまりいい傾向ではないだろう。脳が嫌がっても、ある程度耐えて変化に身を晒し続けるのだ。
新しいものに対して、初めのうち脳は抵抗を示す。しかし、それを何度も繰り返して続けていくうちにある時、その警戒を解き受け入れるようになる。変化とは常にそのようにしてしか起こらないのだ。


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