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『演技と身体』Vol.25 声の表情

声の表情


「共に在る」ための感覚器官

現代の生活で私たちが最もよく使う感覚器官は目だろう。人々は四六時中スマホを覗き込んでいるし、そうでない時間もテレビやパソコンや本など、何かしら視覚を働かせて生活している。
しかし、進化の歴史・人類の歴史から見れば、そうした視覚優位の時代というのはごく最近のことだ。元々は哺乳類ほとんど夜行性なのであり、哺乳動物が昼に活動するようになったのは地球の長い歴史の中で見ればついこの間のことだ。それだけではない。人類の歴史で見てもこれほどまでに視覚を使うようになったのはごく最近のことだろう。電気が発明される以前、夜を照らすのは月明かりと小さな火明かりくらいのものであった。
思想史から考えても、視覚が優位になるのには15世紀の印刷技術の発明を経17世紀に近代思想が芽生えてからのことだろう。第20回第22回の記事でも書いたことだが、近代思想は精神的なものを優位に置き物理的なもの(身体)を支配の対象としたが、そうした支配はまず「見ること」によってなされるのである。なぜなら「見る/見られる」という関係は非対称性を作り出し、見る側を優位に置くからだ。こうしてここ数世紀の間で視覚は破竹の勢いで優位性を強めていったのだ。
こうした歴史からもわかる通り、視覚はまず区別を産み出すものなのだ。自他を区別し、敵と味方を区別し、身分を作り出す。
ではそれ以前には何が感覚の主体だったのだろうか。それは聴覚だろう。例えば平安時代の文学を読むと、もちろんまず見た目の描写があるのだが、人と人との関係が深まるのは夜であり、そしてそこでのコミュニケーションは声を通じて行われる。声は夜行性の哺乳類が離れている仲間と通じ合う手段であり、個体を識別するための重要な手がかりであった。クジラはなんと数百キロ離れた仲間と声を通じてコミュニケーションをとっているのだ。離れていても一緒にいるのだ。視覚が区別を生み出すものなのだとしたら聴覚は「共に在る」ために発達した感覚器官である。
とすると、演技においても共感を作り出すのはまず声なのかもしれない。舞台を見に行って役者の声の張りがあまりに強いとそれだけで入り込めないという経験はしばしある。声も単に強く/弱くという表現だけではなく、強い中にも張りや丸みの違いがあり、弱い中にも芯のあるものとないものがあって然るべきだろう。
発声については専門的な知識に乏しいので、演出的な視点から声の表情について考えていきたいと思う。

能の声

まず、能の謡の発声を参考にしてみよう。と言っても、僕は謡を習っているわけでもないので、いくらか見当違いなところもあるかもしれないが、ともかく僕なりに参考にできそうな点を挙げていく。
能は、まず根本的な声の考え方がユニークだ。世阿弥は『音曲声出口伝』の中で「一調・二機・三声」と言っているのだが、これは①まず身体の中でこれから発する声の音高やテンポを整え②次に身体の諸器官を準備し、息を整え、間を掴む。③そして間を捉えて声を出す。という、発声における序破急の具体的な方法である。
通常の考えと異なるのは、声を発した所から始まるのではなく、声を発した所を終わりとする点だ。声は声になる前が大事なのだ。声になる前の部分がないと、セリフの出だしが単調になりがちになる。人は言葉の内容よりもまずそのリズムや雰囲気を受け取っているので、そうした単調さはセリフの内容を届きにくくしてしまう。
世阿弥は声の響きについても具体的に指南している。例えば、「横(おう)の声」「豎(しゅ)の声」と声の音色を分けて説明している。「横の声」は明るく・強く・太く・外向的な声、「豎の声」は逆に静かで・暗く・細い・内向的な声である。観世寿夫はこれらをさらに具体的に、「横ノ声の方は、息全体を声にして口外に押し出すような気分で発声する、いわば安定した声。」「豎ノ声は、息をあまり声にしないで無声音に少し近づけた繊細な声」であるとしている。また、「横の声」は胴体に響かせる声であるのに対し、「豎の声」は頭に響かせる声であるとも言っている。(
一つのセリフの中でも横豎を織り交ぜながら発することで、変化が生まれる。
また、世阿弥は「出息入息を地体として、声を助け」るようにすべきとしており、つまりセリフは呼吸に乗せて言うのが良いとしている。そして、呼吸を詰めたり開いたりすることで声の調子を変えることができるのだ。呼吸を詰めるというのは、たとえば咽頭を少し締めて摩擦音の聞こえるレジスタンス・ブリージングをしてみるとわかりやすいだろう。それを蛇口をひねるようにして細くたり開いたりしてみる。今度は息を短く吸って、蛇口をキュッと締め切ってしまう。この時、丹田にグッと力の入る感覚がないだろうか。これは能では「コミ」と言って、間を測る上で最も重要なプロセスである。能では短く息を吸い、吸った息はすぐに吐いてしまわずに腹で留めておく。そしてここぞという間で声を出すのだ。このように能では、声が声になる前のプロセスを仔細に技術化されているのだ。もちろん、これらは能の謡のために案出されたものだが、映像や舞台の演技向けにカスタマイズして活用することはできるのではないだろうか。

発音の重心

次に、僕の個人的な考察に基づいた技術を紹介しよう。日本語の特徴を考察して発見したことで、これにはいくらか偏見に基づくところがあるかもしれないが、恐れずに進むことにする。
まず、発音にも重心というものがあるのではないかということだ。外国語の話者にとって「つかれた」「カツ丼」などの「ツ」の音は日本語の中でも発音が難しいようだ。「ツ」は口をすぼめて発音するのだが、この時発音の重心が口の先にある感じがしないだろうか。日本語というのは他の言語と比べて発音を口の先の方で作るという特徴があるように思う。外国でおちょぼ口が日本人の特徴の一つとして描かれることからも、日本語特有の発音の仕方なのだということがうかがわれる。
発音の重心という観点から言語を眺めると、英語は口腔内の真ん中あたり、中国語は鼻の付け根の方、フランス語は喉の奥にそれぞれ発音の重心があるように思える。そして、こうした重心の違いは文化的な違いを反映しているのではないだろうかというのが僕の印象だ。つまり、建前を重んじる日本人は口先で話し、自分の主張を重んじるフランスでは腹に近い喉の奥から声が出る。脳に近い鼻の付け根で話す中国人は戦略的である。日本文化の中でも、潔白さが求められた武士階級では腹の方から声を出す話し方がされていたのではないだろうか。実際に武士の言葉は口先じゃちょっと発音がしにくい。
これらは個人的な印象に基づくものであるが、少なくとも発音の重心と人物の印象には関連があるということは言えそうだ。同じ日本語の話者の中でも、口先で喋る人は本当のことを言っていないんじゃないかと思ってしまうし、奥の方から声が出ている人は遠慮のない感じがする。このことに無自覚で、つい口先に重心を残したまま心情的なセリフを言ってしまうと嘘くさい印象になってしまうのだ。

母音が心情に与える影響

さらに、日本語には母音によって口の形が決まるという特徴がある。例えば英語の場合、口の形を決めるのはどちらかというと子音であり、“Ri”と“Li”では全く発音が異なる。母音は五つしかないので、日本語は口の形としてはいくらか単純な組み合わせとなるが、この点に注目するだけでニュアンスの表現はとてもしやすくなる。ジェシー・プリンツの著書の中で面白い実験が紹介されていた。被験者のあるグループは口をすぼめてペンを咥えた状態で、別のグループはペンを横にして歯で咥えた状態で漫画を読み、その内容を評価するというものである。実験の結果、ペンを横に咥えていたグループの方が漫画を「楽しかった」と評価する傾向が見られた。口をすぼめるといくらかしかめっ面になりやすく、それに対してペンを横に咥えるとにやけ顔になりやすい。こうした顔の形が漫画を読んだ時の心情に影響を与えているというのだ。この現象を「顔面フィードバック」という。
「顔面フィードバック」と日本語の発音時の特徴を踏まえると、どの口の形に強勢を置くかによってニュアンスの表現を変えることができる。母音の中でも「a,e」の時の口の形は明るい表情を作りやすく、「u,o」の時は暗い表情になりやすい。「i」は口角の上げ下げによってどちらにも使えるだろう。
「こんにちは」という言葉一つとってみても、「こ」に強勢を置いて言うのと、「は」に強勢を置いていうのでは印象に違いが出てくる。
さらに子音を比べると、音の硬さに違いがある。「が」「ば」はいずれも「a音」だが、「が」の方が力が乗りやすい。先程の能の音調で言えば「横の声」になりやすい。他方、「ば」は息となって出ていく割合が多く、「豎の声」になりやすいだろう。すると、「がんばれ」という言葉でも「が」に強勢を置いた方が力のこもったニュアンスが出しやすく、「ば」に強勢を置くと力が入りすぎないちょっと抜けた印象を作りやすい。
そして「顔面フィードバック」現象から考えると、これは表現としてだけでなく、話者自身の心情にも影響を及ぼすのではないかと思う。

以上、細かい点が多くて一度に全部を意識するのも大変だろうけど、何かうまくいかない時に修正する手立てにはなるいのではないだろうか。

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