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『演技と身体』Vol.27 世阿弥『風姿花伝』を読み解く② 実用編

世阿弥『風姿花伝』を読み解く② 実用編

前回の記事では、世阿弥『風姿花伝』の中から芸道者の心構えについて述べられた記述をピックアップして解説したが、今回はより実用的な部分にフォーカスしたいと思う。

強き・幽玄、弱気・荒きを知ること

能に、強き・幽玄、弱気・荒きを知ること、おほかた見えたることなれば、たやすきやうなれども、真実これを知らぬによりて、弱く荒き為手多し。(第六花修云)

『風姿花伝』

演技には〈強い演技〉・〈優美な演技〉、《弱々しい演技》・《荒っぽい演技》があるという。〈強い演技〉・〈優美な演技〉は良い演技で、《弱々しい演技》・《荒っぽい演技》は戒めるべきであるとしている。
もう少し具体的に見てみよう。

弱かるべきことを強くするは、偽りなれば、これ荒きなり。強かるべきことに強きはこれ強きなり。荒きにはあらず。もし強かるべきことを幽玄にせんとて、物まねにたらずは、幽玄にはなくて、これ弱きなり。さるほどに、ただ物まねに任せてその物になり入て、偽りなくは、荒くも弱くもあるまじきなり。また、強かるべき理過ぎて強きは、ことさら荒きなり。幽玄の風体よりなほ優しくせんとせば、これことさら弱きなり。(第六花修云)

『風姿花伝』

弱く演じるべきところで奇を衒って強く演じてみたり、力強く演じるべきところで変に優美さを出そうとするとそれは、《荒い演技》・《弱々しい演技》に陥ってしまうという。自分を出そうとする余り、役を潰してしまうというのはありがちな失敗なのではないだろうか。
また、強い役柄を必要以上に強く演じたり、優美な役柄を必要以上に優美に演じればそれもまた、《荒い演技》・《弱々しい演技》になってしまう。暗いセリフを暗い調子で弱々しく演じてしまうと、それはただ眠い演技になってしまう。
特に〈強い演技〉と《荒っぽい演技》の区別は微妙である。この“強さ”と“荒さ”の違いを世阿弥は別のところで“長(たけ)”“嵩(かさ)”という言葉で説明している。

生得の位とは、長なり。嵩と申すは別のものなり。多く、人、長と嵩とを同じやうに思ふなり。嵩と申すは、ものものしく、勢ひのある形なり。(第三問答条々)

『風姿花伝』

要は、“嵩”というのは勢い任せの演技のことであり、技術もなしにただ勢いに任せるのであれば、それは素人芸であり、芸の位には値しないのだ。
しかし、荒くならずに強く演じること、弱々しくならずに優美に演じるとはどういった塩梅なのであろうか。
世阿弥が舞台のセットリストについて言及した箇所が案外役に立つかもしれない。

陰陽を和する

秘義にいはく、そもそも、一切は、陰陽の和する所の境を成就するとは知るべし。
昼の気は陽気なり。されば、いかにも静めて能をせんと思ふ企みは、陰気なり。陽気の時分に陰気を生ずること、陰陽和する心なり。
夜はまた陰なれば、いかにも浮々とやがてよき能をして、人の心花めくは陽なり。これ、夜の能に陽気を和する成就なり。されば、陽の気に陽とし、陰の気に陰とせば、和する所あるまじければ、成就もあるまじ。成就なくは、何か面白からん。(第三問答条々)

『風姿花伝』

陽に陰を当て、陰に陽を当てる、つまり陰陽を和することで演能は成就すると言っている。これを先ほどの話に当てはめると、暗いセリフには、やや強い調子・あるいは明るい調子を当てることでちょうど良い塩梅が得られることになる。もちろんこれも加減が重要だが、もしうまくいかないと思った時には有効な考え方だろう。
これは演技について言ったものではないが、世阿弥の論の多くはフラクタル構造をしており、あらゆるスケールに置き換えても通用させることができる。例えば、序破急のリズムは、足を出す一つの動きから、一曲の展開、さらには一日のセットリストの組み方に到るまで、すべてに当てはめることができる。
したがって、この陰陽を和することも演技の方法論に当てはめても差し支えあるまい。
「弱かるべきことを強くする」ことと、「陰に陽を和する」ことの違いはこれまた微妙なところであるが、よくよく区別して見極める意識を持つだけで随分違うのではないかと思う。

言葉から動きが生まれる

さらに『風姿花伝』の中には、具体的な身体所作について言及されている箇所もある。

優しき言葉を振に合はすれば、不思議に、おのづから、人体も幽玄の風情になるものなり。
(中略)
風情を博士にて音曲する為手は、初心の所なり。音曲より働きの生ずるは、劫入りたるゆゑなり。
(中略)
音曲より働きの生ずるは順なり。働きにて音曲をするは逆なり。
(中略)
音曲の言葉の便りをもて、風体を彩どり給ふべきなり。これ、音曲・働き、一心なる稽古なり。(第六花修云)

『風姿花伝』

風情とは体の動きの働きだと考えて良い。
ざっくり言うと、動きとは言葉から自然と生まれるものであるということだ。先に体の動きを決めて演技を組み立てるのは初心者のやることであり、あくまでまず言葉から動きを設計してゆくべきだというのだ。そのことによって、言葉と動きが一体になるのである。
これは逆に言えば、言葉ばかりが激しくて動きが伴わないような場合もまた良くないということになる。セリフと動きがちぐはぐにならぬよう、言葉から適切な動きを作り出すことが大切なのだろう。
と、言われてもそう簡単ではない。例えば、激しい言葉にそのまま激しい動きをつければそれは《荒っぽい演技》になってしまうだろう。その塩梅はどう設計してゆけば良いのだろうか。
[第三問答条々]で「文字に当たる風情とは」という質問に、世阿弥はこのように答えている。

第一、身を使ふこと、第二、手を使ふこと、第三、足を使ふ異なり。(第三問答条々)

『風姿花伝』

文字を動きに起こすに当たって、第一に胴体を使い、次に手、最後に足の動きを入れてゆくのだと言っている。さらに詳しく見てみよう。

いかに手足利きたれども、身利かねば、品、懸り、相応せず。身使い達者なれば、手足おのづから働く便あり。さるほどに第一とす。(第三問答条々)

『風姿花伝』

手足だけバタバタと動かしていても、胴体の動きが対応していなければ仕方がない。逆に、胴体の動きがしっかりしていれば、自然と手足の動きも効いてくるのだ。
これは伊藤昇氏の胴体力の論理とも一致する。伊藤氏は、身体のあらゆる動きは胴体の動きより発すると言っている。これは鞭の原理で考えれば分かりやすいところであるが、鞭は太い部分を動かしてその動きを細い先端に伝えることでしなやかさや威力を発揮できる。人間の体も同様に、まず大きな部分を動かすことが大切なのだ。
次に手だ。

次に、舞・働きの花を見するは、手持ちなり。さるほどに第二とす。(第三問答条々)

『風姿花伝』

手は細かな動きを得意とするところであり、微妙な心情など、演技に花を咲かせるのに重要な部分である。ただし、手がそのような細い仕事をできるのは胴体がまずしっかりと動いていて、手に余計な力が入っていないことが前提となる。だから手を使うことは第二なのである。

足は、舞・働きの博士なれども、品・懸りの花を見すること、このうちには大用少きが故に第三とす。(第三問答条々)

『風姿花伝』

足は動きの基本ではあるが、それ自体が花とはなりにくいので第三なのである。また、足は細かい調整が効きにくく、下手に動かすと余計な重心移動が生まれたり、落ち着きがなく見えたりしてしまうであろう。ここぞというときに力強さを生むものではあるが、不用意に動かすとマイナスが多い。

書き手の心得

これらの動きに関する記述は演技者にとってだけでなく、脚本家・演出家にとっても大変重要である。
花伝第六花修云では、作り手の注意点も書かれている。

音曲ばかりなると、また、舞・働きのみなるとは、一向きなれば、書きよきものなり。音曲にて働く能あるべし。これ一大事なり。真実面白しと感をなすは、これなり。(第六花修云)

『風姿花伝』

現代に置き換えると、セリフばかり、あるいは動きだけの脚本というのは書きやすいものであるが、言葉とそこから生まれる動きの揃った脚本こそが面白いのだということになる。これは、脚本を執筆する人間として大いに思い当たるところがあり、読んでいて物凄い汗をかいた次第である。
また、先ほど「音曲より働きの生ずるは順なり。働きにて音曲をするは逆なり。」と引用し、役者は言葉から動きを生み出すのだと言ったが、このことから書き手には次のことが言える。

音曲より働きを生ぜさせんがため、書く所をば、風情を本に書くべし。風情を本に書きて、さてその言葉を謡ふ時には、風情がおのづから生ずべし。しかれば、書く所をば風情を先立てて、しかも謡の節懸りよきやうに、嗜むべし。(第六花修云)

『風姿花伝』

役者が言葉から動きを生み出せるようにするためには、書き手はまず役者の動きを想像しそれを元に言葉を書いていくべきだというのである。動きは演出の時に考えればいいや、とつい考えてしまいがちであるが、そもそも書く時に動きと言葉とを一緒に考えておかないからいざ演出する時に、動きとセリフとがうまく合わないということも出てくるのだ。ここもまた、読んでいて汗だくであった。しかも、動きを想定して言葉を書くのだが、言葉それ自体もちゃんと響の良いように書きなさいと言っている。

作者も発端の句、一声・和歌などに、人体の物まねによりて、いかにも幽玄なる余情・便りを求むる所に、荒き言葉をかき入れ、思ひの外にいりほがなる梵語・漢音などを載せたらんは、作者の僻事なり。定めて言葉のままに風情をせば、人体に似合はぬ所あるべし。(第六花修云)

『風姿花伝』

さらに書き手は、セリフの第一音にまで気を配るべきだと言う。優美な人物のセリフの第一音が荒っぽい音であったり、漢音などの奇を衒った小難しい音であったりした場合は、これは作者の過ちである。
多くの役者は呼吸が浅かったり、息を吸いすぎたりするために、セリフの第一音目で失敗しがちである。吸った息をすぐに言葉にして吐くと、不用意な息漏れがあり、セリフに力が乗らない場合が多い。これは役者の技術不足でもあるのだが、書き手は留意しておくべきかもしれない。

以上、今回は『風姿花伝』より実用的な部分を拾って紹介した。
しかし、あの言葉がまだ出ていないことにお気づきだろうか。そう、かの有名な言葉“秘すれば花”である。次回、この言葉について語らせていただきたい。

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