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『演技と身体』Vol.46 世阿弥『至花道』を読み解く②

世阿弥『至花道』を読み解く②

前回に引き続き世阿弥、中期の伝書『至花道』を読み解いていきたい。
世阿弥の伝書では前期の作『風姿花伝』が最も有名だが、『風姿花伝』は父・観阿弥の教えを書いたものとも言われているので、世阿弥の独自性が出てくるのは中期の作以降とも言える。そして、世阿弥の特徴はその抽象性にあると思う。能の演目でも、世阿弥が作った作品は人物の想いが非常に抽象化されたイメージを纏っている感じがする。

『至花道』前半のまとめ

前回紹介した『至花道』の前半部分では、芸を上げていく過程が「二曲三体」→「有主風」→「闌位」と大まかな段階によって示されていた。簡単にまとめ直すと、まず役者としての身体能力を身につけ(二曲三体)、それから正当で主体性のある内発的な演技をできるようにして(有主風)、そして芸を極めたら敢えて邪道な演技を織り交ぜて演じよ(闌位)、ということであった。
今日紹介する『至花道』の後半部分は、ますます抽象的である。あまり細かい理解にこだわらず、自分なりに解釈して役立てるのが良いのではないかと思う。

皮・肉・骨事

この芸態に、皮・肉・骨あり。
下地の生得のありて、おのづから上手に出生したる瑞力の見所を、骨とや申すべき。
舞歌の習力の満風、見に現はるる所、肉やと申すべき。
この品々を長じて、安く美しく極まる風姿を、皮とや申すべき。

至花道

まず、〈骨〉とはその人が持つ素質であり、〈肉〉とは修行によって習得した力量であり、〈皮〉とはそれらが長じて極まった姿であると述べる。
ここだけを読むと、〈皮〉が最高位に置かれている感じもするがよく読んでいくとそうでもなさそうだ。

見は皮、聞は肉、心は骨なるべきやらん。

至花道

また

今ほどの芸人を見及ぶ分は、ただ皮を少しするのみなり。それもまことの皮にはあらず。〔中略〕しかれば、無主の為手なり。

至花道

心は骨であるのに、近頃の役者は皮を少しするばかりであると批判している。
総合して考えると、〈皮〉=姿というのはあくまで結果であって、役者の心がけは〈骨〉や〈肉〉にあるべきだと言っているように思う。それを近頃の役者は結果的な優美さばかりを求めるから無主風に陥るのだと言っている。
つまりまずそれぞれに固有の素質「骨」があって、それを踏まえた上で修練を重ねて「肉」をつけてゆく。そうすれば自ずと優美な姿=「皮」が得られると解釈できる。
世阿弥は、近頃の役者は「皮」ばかりを求めると愚痴をこぼしているが、21世紀現在で言えばその逆もまた然りで、自分の「骨」=素質を過信してそれに頼りきりで修練を怠る役者も多いように思う。演じている時の自分の心の状態だけを問題にしてそれがどう見えているのか、どう聞こえているのかという点に無頓着な役者が多い。自分の素質=「骨」を信じることができているのならなおさら修練によって「肉」を鍛えるべきだろう。

まことの皮

と、これまでは「皮・肉・骨」を一連の段階として解釈してきたが、それぞれを独立した芸のスタイルとして解釈することもできる。文学者の小西甚一氏は、〈皮〉の芸とは「演技のおもしろさがよくわかり、目利きも目利かずも感心するような」ものであり、〈肉〉の芸とは「表面的なおもしろさは無いけれど、芸力が自然にあらわれて、しみじみ感心させられる」ものであり、〈骨〉の芸とはさらに「どこがうまいのか全然わからず、単にうっとりしているだけで、感心する余裕さえ無い」ものであると解説している。
当然「皮・肉・骨」を併せ持つ役者が最強なのだが、世阿弥も「三つそろふ為手とはなほも申しがたし」と、その難しさを強調している。
そして、先にも引用した通り、姿の美しさばかりを表面的に追い求めるのは“まことの皮”ではないのだ。
つまり〈皮〉の芸とは、誰にでもわかりやすいような演技を指すが、単にわかりやすいということだけでは“まことの皮”ではないのである。小西氏は、〈皮〉が〈骨〉や〈肉〉と浸透し合う時、それは〈肌あい〉として顕れると述べている。
いずれにしても現れ出た表面の奥に何かを感じさせられるかが肝要だ。

“こころ”と“しん”

では、その奥に感じられる何かについても考えてみたい。
世阿弥は「心は骨」と述べていたが、実はこの「心」という字“こころ”と読まずに“しん”と読む。“こころ”と“しん”とはどのように違うのだろうか。
“こころ”というの時、それは役者の意識層における判断作用を指す。現在普通の意味で使う“気持ち”という語に相当すると考えて良いだろう。ポイントは“こころ”は役者自身に自覚される気持ちであるという点だ。
それに対して“しん”は、意識層のもうひとつ深い層に属するもので、意識による判断作用を介さない無意識的な心のあり方である。言い換えれば、それは自我を越え出ている。役者はどうしても“わたし”を表現しようとしてしまうが、そこにこだわり始めると自我という隘路にはまって矮小で自己満足な表現となってしまうのだ。
自我を越え出るとは、“わたし”を越え出て“人間”や“生命”を表現するということだ。世阿弥作品の抽象性はそういった自我を超越したところにあるのだ。その時、意識に自覚される判断作用というのは役に立たない。生命のメロディーが自分を通して奏でられるに任せるしかない。
その時、役者のあり方としては「無」としか言いようのない状態なのだが、この「無」は“何もない”のではなく“すべてが溶け合っている”のである。したがって、この「無」に至るには役者としても人間としても膨大な思考と経験を通過する必要がある。

体・用事

最後に「体・用事」の項目について説明しよう。

体は花、用は匂ひのごとし。
体をよくよく心得たらば、用もおのづからあるべし。

至花道

ここまでの話を踏まえて読むと、『至花道』全体がこの言葉によくまとまっている(世阿弥、すごい)。
この項で繰り返し述べられているのは、良い芸を見たからと言って、その【用】を真似てはいけないということだ。
用】とは演技の結果的な見た目や印象である。演技の表面的な部分は花の匂いのようなもので、本質ではない。匂いを真似たければ、その花の部分(【体】)が見えていなければならない
そして、何が【用】で何が【体】なのかは、これまで見てきた通りだ。
【用】とは名人が時折見せる「非風」の芸であり、〈皮〉の芸である。【体】とは、そこに至るまでの「二曲三体」の稽古であり、「有主風」に至るための人間性であり、それは言い換えると〈肉〉の芸、〈骨〉の芸である。

「二曲三体」を養うべし

僕から見て、現代最も足りていないのは「二曲三体」あるいは〈肉〉の芸である。特に日本の演劇・映画・ドラマでの役者の身体性の水準の低さは、観ていてかなりキツく感じる時もある。
〈骨〉の部分においても、反知性主義的な潮流の中で馬鹿であることがもてはやされ、結果として薄っぺらい自我を必死に強調するような手合いが多く、その割にわかってもいないことを「わかりました」と簡単に言って気に入られようとする主体性のない連中か、敢えて相手につっかかることが主体性であると履き違えて的外れな議論ばかりをしたがる割にいざ演技をすると大した違いを出せない輩に二分される。
他方では、そういった世の中の風潮に惑わされずに自分と深く向き合って演じようとする真の芸術家もいるのだが、そのような役者がなかなか売れないのは非常に哀しい事態である。
絵画であれば、「うまくあってはいけない」ということも一つの美徳であるが、演技となるとなかなかそうもいかない。少なくとも、表現される方向性や形はめちゃくちゃであっても良いかもしれないが、エネルギーの総量はなければいけない。そして、それを養うのが「二曲三体」である。
繰り返すが、とにかくほとんどの役者は「二曲三体」ができていない。二曲三体とは身体のダイナミズムである。『たそがれ清兵衛』で初めて芝居をした田中泯になぜ誰も敵わないのか(もちろん田中泯の素晴らしさは身体のダイナミズムだけにあるのではないが)。
先に引いた通り世阿弥も嘆いているくらいだから、いつの時代も人は表面的なところしか見ようとしないのは変わらないのかもしれない。だからと言ってそこで諦めて本質を追い求めることをやめてしまわないのもまた人間である。
また、折々に世阿弥の伝書を紹介していきたいと思う。

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