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左様なら〜星がない空を見つめて〜

通勤電車に乗っていて「お化け」によく出会う。
お化けが口を開けば「何のために働いてるかわからない。」
彼らは家と目的地の往復の日々にうんざりし、車窓に映る死んだ目を見てはっとする。「この生活いつまで続くのか。」って。

私は正直、まだこの気持ちはわからない。ただいつか私も「そっち」側になるかもしれないとは危機感を持って生きている。そのために自分が壊れてしまわないように「大丈夫?がんばれる?」、「これは本当にしたいこと?」って問いかけることを忘れない。

なぜ問いかけるようになったのかというと学生時代が大きく影響するかもしれない。

人間には「学校が得意な人」と「学校が不得意な人」がいると思う。私は「学校が不得意な人」で集団に馴染むのが苦手だった。生ぬるい空気感のなか均衡を保つために顔色を伺いあっているのがどうも合わなかった。「社会を生きていくうえで必要なこと」というのは頭で理解していたけれど、行動とは相反していた。

やっぱりそれは形になって現れて友達とは少し話があわなかった。お互いに気持ちがいい距離間を調整してくれる大人のほうが楽だった。
そこからだ。
「何で自分は子供らしくないのだろう」
「自分って何だろう」
と、いわゆる「自己分析」を始めた。

友達、服、携帯…何を選択するにも自分のなかで理由をつけないと次へ進めなかった。
だから星のない空の下で常に問いかける「いまを納得して生きているか」って。

こんな感傷的な気持ちになったのはある映画を鑑賞したからだ。

『左様なら』
鑑賞中、苦しくて苦しくて仕方なかった。何か状況を伝える時「美しい」など当てはまる形容詞があればなって思う場面がある。人生では、そこにいなければわからない空気感があって、人が集まるほど形成されていくと思う。映画のなかで巻き起こる状況は、言葉で伝えられない。非常に繊細で現実味があった。
帰り道、人がごった返す横断歩道を渡りながら一人、夜更けに悦に入ってしまった。

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