こはる

95年生まれ。兵庫から東京へ。レモンサワーとおもちと映画をこよなく愛す。 ストーリーデ…

こはる

95年生まれ。兵庫から東京へ。レモンサワーとおもちと映画をこよなく愛す。 ストーリーデザイナー。 エッセイ×映画紹介。

最近の記事

地方創生という言葉への疑問

東京が大好きな少女私は典型的な「東京が大好きな少女」でした。 川や山に囲まれてきた幼少期。「無い物ねだり」という言葉の通り、煌びやかな世界をTV・漫画・映画に求めていました。 エンタメ業界から恋も仕事も人間関係も学ばせてもらった私は、夢を持って東京にきました。(洋画でいうと主人公がNYやLAにいく気分で。) うわー!!!東京だー!!すごいー!! という言葉を上京して何度発したでしょう。 いまとなって振り返るとフィルターがかかって世の中を見ていたのかもしれません。 とにかく私

    • 子どもがえらくなった世界

      愛(16)は、反抗期。ある日、デートで帰宅が遅くなった愛は激昂される。「親なんていなくなればいい!」と叫んだ次の日、異変が起こる。TV放送されている国会中継も議員が子ども、学校の先生も子どもに!子どもと大人の立場逆転する。

      • 米ティーンエイジャーへの羨望

        長期間の留学経験がない私。 だからだろうか、もう過ごすことができない「アメリカ」ティーンエイジャーへの憧れが抑えきれない。 親に内緒のパジャマパーティー、ベッドの上で日記を書く姿、おまけにその日記帳も自分でデコレーションしておしゃれ、プロム、キャンプ、移動式遊園地、音楽がかかると踊りだしちゃう… はっきりと言える。映画・海外ドラマに完全に影響されている。 自由を重んじてきた国だからだろうか、というか映画だからだろうか、どのティーンエイジャーも自分の個性を理解し、自分に合っ

        • 不安が消えない夜に

          不安にさいなまれ、一人でも消化もできなくて、ただ誰も飲んでくれないし話を聞いてくれないっていうある夜。 正直、大して悩むことでもない、何なら不安になる要素も何もない。わかってる、わかってはいるんだけど漠然な見えない不安がのしかかるのだ。 そんな状態に頭はパニック。非常事態なりにも不安から逃げる対策を考える。 「あ、ホルモンバランスのせいにしよう」 「ご飯食べたら運動しよう。」 「夜遅いから運動じゃなくて映画鑑賞をしよう。」 「お風呂入ってから映画見よ。」 「お風呂入ったら眠た

        地方創生という言葉への疑問

          悪を感じるとき

          抜け落ちる髪の毛たちをせっせとかき集めると大きなもろい山となる。風が吹けばすぐ解散するんだけど、それをまた私はかき集めて捨てる。 もし髪の毛の1本1本に魂が宿っていたとしたならば、私はものすごい悪人なんだと思う。 悪の定義はさまざま。特に日本では、法律をのぞき人は無言の温度を感じて適切な行動をしている。いや、適切だと言い聞かせて行動しているのだ。悪いことをしてい流ときでさえも。自分のなかにある正義感から目をつむり適切だと言い聞かせている。 何か自分を律してたものがほどけたとき

          悪を感じるとき

          もし自分が脚本を書くならば

          ===================== 結婚を1週間後に控える明美は、未婚最後の取材へ。今回のテーマは取り壊しになる映画館。同い年くらいの映画館長にインタビューをする。別れ際、彼は一言「私は昔からあなたのことを知っていました。」(94文字) ===================== 大人になれば思わぬ出会いが増えていくけれど、縁の数だけ世界が狭くなる感覚がある。変なことできないな〜。

          もし自分が脚本を書くならば

          JOKERという道徳

          自分の道徳感を疑った。いや、疑わざるをえなかった。 この頃「正しい」という言葉をなるだけ使うのをやめました。「正しい」ってなんなのでしょう。社会の基準、歴史、一般常識、道徳、法律、正しいをはかる基準としてのものさしは世の中にたくさんあふれている。 でも、その「ものさし」って正しいの? 正しい生活。正しい文化。正しい行動、正しい、正しい、正しい… 私は、世界のある側面しかみていません。 だから、教育で受けていた「正しい」が私の基準になっているのだと思います。国境をこえれば

          JOKERという道徳

          恥じらいながら

          恥じらいがある人は素敵だ。 割箸を割るとき、ものを渡すとき、何か言い間違いたとき。 自然であればあるほど奥ゆかしさを感じる。 ちょっと恥じらいを意識したほうがこの世界で傲慢に生きていた自分を反省することができる。 電車に座るとき、運転するとき、お酒を飲むとき。 行動だけに集中しなくなる。 「あの人なんの音楽聞いているんだろう。」 「私はなんの音楽がすきだろう。」 「あの車、急いでいるかな。」 「あ、車入れてあげなきゃ。」 「飲み足りないな。」 「あの子、グラス空いてる。」 も

          恥じらいながら

          生まれたばかりで

          なんでだろう。 生まれた瞬間は、だいたい人名という固有名詞が1つだったのにも関わらず成長するにつれて1つだけじゃおさまらなくなる。 「A組の●●さん」 「●●の彼女の●●さん」 「●●部門の●●さん」 所属が増えるし、誰かを説明するときに手っ取り早いからだろう。 でも、ほんのたまに肩にのっかってる名詞に偏りすぎてバランスがおかしい人を見るとはっとする。 生まれたばかりのときは何にもなかったのにな〜って。 名前を巧みに使用しているといえば「007」 実は、そこまでしか情

          生まれたばかりで

          夏の匂い

          梅雨があける頃に漂う夏の匂いが大好きだ。 何で好きなんだろうと考えると父のふるさと、長野の思い出が強いからだ。 小学生の頃、毎年お盆になると長野に帰省していた。 畑に囲まれた祖父母の家に行くと、必ずいとこがいて一緒に遊べることが楽しみで仕方なかった。 プール、ショッピングモール、花火大会、リクリエーション、トランプ… 小学生の私にとって何もかも新鮮で毎日が楽しかった。 最終日には『火垂るの墓』を観て、号泣して、でもけろっと庭先で花火をした。大人たちはビールを片手に

          夏の匂い

          雨垂れ

          グチュ、グチュ、グチュ 「僕はここにいますよ。」と水分を含んだ靴下が歩くたびに鳴き出す。 すごく感覚としては気持ち悪いのになぜか癖になる。 雨がもたらしてくれる身体の反応は何とも感慨深いものがある。 雨は必然的に身体の面積を広くする。 というのは、傘を持つから。 雨になると傘は身体の一部になる。 でも、たまに傘は傘で人格を持っている場合もある。 電車の中で暴力を振るうことはしばしば。だから、傘の先は怖いし、服が濡れるのではないかという恐怖感がある。 「傘も身体の一部として

          ハッピーエンドなんて大嫌い

          最近、第二のモラトリアム期に突入していました。 自分の「やりたい」ことのために人生を謳歌している人の横で、私は遠回りをしている気持ちになってしようがなかったからです。 「やりたい」を考えれば考えるほど、時間がなく焦ってそしてモチベーション維持を続けるのが難しくなっていたからです。 人生の先輩は言ってくれます。 「人生に無駄なんてないんだよ。」 その通りだと思います、多分。自分が年齢を重ねるといろいろな点が繋がって線になるんだろうなって小娘でも考えられます。とはいえ、正直そこ

          ハッピーエンドなんて大嫌い

          夏休みの宿題でわかる人間性

          最近「この人、しっかりしているな」と思う人は、幼少期からしっかりしていたりする。たとえ「私、全然ズボラで。」と言葉で発していても 「夏休みの宿題どっち派でした?最終日に全部終わらせてた派ですか?」 って聞くと「うーん、いっぱい遊びたいから早めに終わらせてたかな」と回答する。 社会に出て、いろんな人に出会うことが多くなった。 「この人、世渡り上手だな。」と思う人に 「夏休みの宿題どっち派でした?最終日に全部終わらせてた派ですか?」 と、同じ質問をすると「読

          夏休みの宿題でわかる人間性

          明日が来年になる

          大晦日。 時間の区切りとは不思議なもので、自然と内省の時間をもたらしてくれる。 そして、今まで「明日しよう。」がこの日だけは「来年しよう。」になる訳で何とも感慨深い。 来年を迎える準備ができるようのはとても幸福なこと。迫り来るこの時間、FacebookなどのSNSはこぞって今年の振り返りと来年の抱負を述べていくし人もいるし、せっせと仕事している人もいる。もしかしたら家族と笑いながら過ごしているのはほんの一部で、「明日がくるかもわからない」なか生きている人もいる。

          明日が来年になる

          私がInstagramをしない理由

          「フォローしたいからアカウント教えて。」 初めましての人によく言われるセリフだ。 「ごめん。インスタしてないんだよね。」 新人類を見たようなとてもビックリされた顔をする。 そして次にくる質問が 「何でインスタしてないの?」 いい機会なので自分がなぜしていないのかまとめようと思う。 まず前提としてインスタをしている人を批判はしていない。あとはちなみにアカウントは持っている(見る専門、面倒なので「していない」と回答している) あくまで「なぜ自分は発信してしないのか」を述

          私がInstagramをしない理由

          風に落とされた帽子

          ある日の晩、仕事帰りの道。遠くのフェンスの側に帽子が落ちていた。恥ずかしながら「落ちているなぁ」の感想だけで通り過ぎ家路に着いた。その後、買い忘れのものがあったのでまた先ほどの道を通ると帽子は誰かの手によって踏まれることがない手すりに避難されていた。 わずか5分の間でのこの出来事。 自分の情けなさを感じつつも趣を感じずにはいられなかった。 趣とは 閉店した銭湯の貼り紙だって… 喫茶店だって… 人間の手が加わったと思うと感情が動く。 誰かを感じるってこんなに暖か

          風に落とされた帽子