「最後の巨匠」は誰か
クラオタ界でよく耳にする「最後の巨匠」。
この言葉はもはやクリシェと化していて、いったい何人最後の巨匠がいるのかわからない有様である。
いったい「最後の巨匠」は誰なのだろう?
こういうことを書くと、最近の「白けオタク世代」は
「そんなの人によって違う。無理に決めなくていい」
とか言い出す。
こういう言説がクラオタ界をつまらなくさせているのだ。
クラシックに限らず、「史上最高の野球監督は誰か?」とか「史上最強の将棋棋士は藤井か羽生か大山か?」といった議論はオタク心をくすぐる。
さて、20世紀後半は紛れもなく巨匠たちの百花繚乱の時代であった。
カラヤン
バーンスタイン
ムラヴィンスキー
チェリビダッケ
クライバー
ショルティ
文句のつけどころのない巨匠たちである。
しかし、現代において巨匠が絶滅危惧種になってしまったのは、N響の元コンサートマスターであるマロさんこと篠崎史紀の発言が参考になる。
曰く、
「もはや個性の時代ではなくなった」
というのである。
巨匠と個性はお好み焼きとオタフクソース並みの抜群の相性だ。
しかし現代の指揮者が重んじているのは、個性よりも「いかに楽譜に忠実か」。
そんな同じ指標での競い合いでは個性の違いが生まれるわけがない。
私が実演に間に合った巨匠というと、以下の人たちの名前が浮かぶ。
朝比奈
ヴァント
アーノンクール
マリナー
フルネ
コルボ
逆に世代的に聴けたのに聴きもらした巨匠が
サヴァリッシュ
ブーレーズ
ハイティンク
ヤンソンス
ベルティーニ
アバド
など。
しかし名前を挙げておいて何だが、フルネなんか果たして「巨匠」と呼ぶに相応しいのだろうか。
指揮者には「巨匠」と呼ばれる人と「名匠」と呼ばれる人がいる。
わかりやすい例では、秋山和慶。チラシなどで「巨匠」と紹介されているのを見たことがない。
今度指揮者生活60周年の記念コンサートがあるが、「日本の至宝」と書かれていた。
「巨匠」とは書けないが「名匠」では不足する、と考えたコピーライターの苦肉の策と言うべきか。
かつて宇野功芳が「花形指揮者」と一括りにして嫌っていたムーティ、メータ、バレンボイムらも現代の巨匠かもしれない。
ラトルやシャイーを加えてもいいだろう。
エッシェンバッハやヤノフスキは私の感覚では名匠に近い。
N響ファンから神様のように崇められているブロムシュテットも年齢的には十分巨匠なのだろうが、私にはいまいちしっくりこない。
職人気質の指揮者は名匠と呼んだ方がいいかもしれない。
スクロヴァチェフスキやプラッソンである。
翻って日本の楽壇を見るに、日本には巨匠が存在したことがないのではないか。
朝比奈や若杉クラスでさえ、巨匠と呼ばれていたかわからない。
実績で言えば小澤が一番だが、小澤は永遠のやんちゃ青年みたいなところがある。「巨匠」という衣はどうも似合わない。
私の考えでは、共に88歳であるデュトワとインバルも巨匠の一人だ。一時代を築いたからである。
デュトワはモントリオール交響楽団と黄金時代を築き、「フランスのオーケストラよりフランス的な響き」と称賛された。
インバルはフランクフルト放送交響楽団といち早くマーラーとブルックナーの全集を出し、ベストセラーになった。
古楽の世界でいえば、ガーディナーとピノックも活動歴の長さから巨匠と呼べるかもしれない。
巨匠呼びは芸風にもよる。現役最高のピアニストとも言うべきアルゲリッチは、巨匠と呼ばれているのを聞いたことがない。自由奔放な彼女のキャラに合っていない。
むしろ、シフやツィメルマンの方が巨匠感があるだろう。
近年はアーティストの芸が小粒になってきたと言えるかもしれない。
クラシック界ではないが、蜷川幸雄、美輪明宏、平幹二朗、こういった人たちの芸風はスケールが大きかった。
はたして未来の巨匠はいるのだろうか?(「チューボーですよ」みたいだが😅)
私は囲碁や将棋は強さではなく棋風で魅せる時代に変わっていくと思うので、クラシックもまた個性の時代がやってくると思っている。
個性のない芸術の何とつまらないことか。
俺の音楽を聴け!
そういう指揮者がまた出てきても悪くない。