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囲碁小説「手談」#15

 帰りにスーパーに寄った。豚こまのパックを手に取るとドリップが流れてきたので、アメリカ産のロース切り落としにした。
 豚肉ともやしをレジ袋に詰め込んでいると、隣にいた背中の曲がったおばあさんと目が合った。おばあさんはびわのパックをシルバーカーにぎゅうぎゅう押し込んでいる。
 帰ろうとした瞬間あっという声がして、振り向いたら床にびわが散らばっていた。
 あらあらと慌てふためくおばあさんに拾ったびわを渡した。
「すいませんね」
「いえいえ」
 照れ笑いするとおばあさんも目を細めた。会釈して帰ろうとすると、
「ちょっと」
 おばあさんが呼び止めた。
「よかったらこれ召し上がって。さっきのお礼」
 おばあさんはシルバーカーの奥からびわのパックを取り出した。二つ買っていたようだ。
「孫の好物なのよ。好きなものくらい食べさせてあげたいじゃない。あなたに似た感じの子なの」
 おばあさんは僕にびわを渡そうとした。
「いいですいいです! 申し訳ないです!」
「まあいいじゃない。年寄りのわがままに付き合ってあげるのも優しさよ」
 びわのパックを持って途方に暮れる僕におばあさんは小さく手を振って店を出ていった。
 帰宅して食材を炒めていたら、母が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり。今日は横山さんとお茶だったっけ。楽しかった?」
「まあね。何作ってるの」
「残り物の野菜で肉野菜炒め。さっき塩胡椒したから味見してくれる?」
「いいわよ。味見なんて」
「あなたの好みの味つけにしたいから言ってるんでしょ。味見してよ」
 小皿にのせて渡した。
「もう少し塩胡椒した方がいいんじゃない」
「ほら、やっぱり。だから味見してって言ってるの!」
「帰ってきたばかりなんだからそんなにイライラしないでちょうだい!」
 母はそう言い捨てると自分の部屋に行った。僕は肉野菜炒めを取り皿に分け、冷奴と御飯と麦茶をテーブルに並べた。部屋から出てきて席に着くなり母が言った。
「忘れてた! こないだ録ったあれを見ないと」
 母が毎週楽しみにしてる下品なトークバラエティのことだとすぐにわかった。
「録画見るの? じゃあ俺は部屋で食べるからね」
「あら、そう。晩御飯ありがとうね。助かったわ」
 母が引き止めなかったのでいっそう腹が立った。冷蔵庫のびわは明日一人で食べようと思った。
 土曜日、目が覚めて携帯を見たら午後二時だった。昨日遅くまで囲碁アプリをしていて対局中に寝落ちしてしまったようだ。完全に勝ってる碁だったのにもったいない。
 週一日打ってるだけでは初段に上がるのは難しい。教室ではせいぜい二、三局しか打てない。
 その点、ネット碁ならいつでも好きな時間に打てる。韓国や中国のユーザーが多い中国製のアプリだが、囲碁は会話が必要ないので対局に支障はない。
 問題なのはサーバーエラーなのかときどき画面がフリーズして、対局中なのにそのまま時間切れで負けることだ。
 他にも顔が見えないのをいいことに、大敗しているのに延々と打ち続けるやつがいる。それもこちらのしびれを切らすように、毎回三十秒の秒読みぎりぎりで打ってくる。
 囲碁は両者の合意がないといつまで経っても終わらない。勝ち数で昇級が決まるので勝ち碁を逃すのは痛いが、たちの悪い相手に当たったら運が悪かったとあきらめるしかない。
 腹ごしらえにトーストと目玉焼きを食べて教室に向かうと、先生と杉浦さんが対局していた。
「遅くなりました」
「もうすぐ終わるから待ってて」
 先生はそう言うなり、盤上に視線を戻した。
 奈緒ちゃんと咲希ちゃん、翔太くんと航平くんが対局している。和室で優佳ちゃんが背筋を伸ばして棋譜並べをしていた。大樹くんは対局の疲れか、クッションを抱いてごろごろしている。
 杉浦さんの指導碁を終えた先生は翔太くんと航平くんの対局の検討を簡単に済ませた。
「今日は趣向を凝らしてペア碁をやろうって杉浦さんと話してたんだ。それなのに主賓がなかなか来ないから困ってたんだよ」
 先生が渋い顔をした。
「すいません」
「シュヒンって何?」
 優佳ちゃんが訊いた。
「一番大事なお客さんのこと」
 杉浦さんが僕をちらっと見て答えた。
「すいません」
「紺野くん、ペア碁わかるよね」
 先生が言った。
「はい、一応」
「やったことあったっけ」
「ないです」
「じゃあ、初体験ってわけだ。誰とペア組みたい?」
 思わず杉浦さんを見た。

【囲碁用語】
囲碁は両者の合意がないといつまで経っても終わらない…相手の玉を詰ませば勝ちの将棋とは違い、囲碁の終局はわかりづらい。陣地取りゲームなので石が置けなくなるまで延々と打ち続けることも可能だが、「これ以上打ってもお互いの陣地の増減はありませんよね」と両者が捉えると終局となる。NHK杯の終局シーンは対局者が整地の前に頷き合っているが、それが合図である。
ペア碁…2人ペアになり、交互に打ち進める碁。AさんBさんペアとCさんDさんペアの場合、A→C→ B→D→ Aの順番で打っていく。

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