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囲碁小説「手談」#16

「紺野くんはすぐ顔に出るね」
 先生があきれて言った。
「このわかりやすい人と組むんですか」
 杉浦さんもあきれ気味に言った。
「何かいじめられてる気がするんですけど、気のせいでしょうか」
 ふざけて言ったら、
「いじめてるんじゃなくて、からかってるの」
 先生が笑って言った。杉浦さんも笑っていた。
「じゃあ、私は奈緒と組むことにしましょう。奈緒、ちょっとこっち来て」
 咲希ちゃんとの対局を終えた奈緒ちゃんは、先生の隣に座ると赤いパーカーのフードから頭を出した。
「どうだった?」
「着実に強くなってます」
「それはよかった。私が教えるのもいいけど、年の近い先輩が教えるのも大事なんだ」
「はい」
 奈緒ちゃんは小さく頷いた。
「奈緒は初段だから、まずまずの対局になるでしょう。杉浦さんはこちらの駄馬をしっかり鞭打ってください」
「駄馬って」
 僕は苦笑した。
「これから駄馬さんって呼ぼうかな」
「杉浦さんまでひどい」
「はい、じゃあ対局。こちらは奈緒が先で、そちらは紺野くんが先でいいかな。握ってください」
 僕が白石を摑むと奈緒ちゃんは黒石を一つ碁盤に置いた。十二個だったので僕らの先番だ。
 右上隅の星に打った。広い碁盤の隅に一つだけぽつんとある黒石は心細く見える。でも僕が悪手を打ったとしても、杉浦さんがきっと助けてくれるだろう。
 序盤から白の打ち回しがうまく、地を先行されてしまった。地が足りないので中央を囲う作戦にした。
 先手を取ってさっさと囲いたいのに、杉浦さんが別のところばかり打つので調子が狂った。そのうち中央に白が押し寄せてきて思ってたより黒地が作れなかった。十五目半負けだった。
「奈緒はだいぶよく打ててるね。日ごろの努力の証だ」
 先生に褒められて奈緒ちゃんは恥ずかしそうに笑った。
「さすがの杉浦さんもこの駄馬を乗りこなすのはてこずったでしょう」
「やっぱり駄馬でしたね」
 杉浦さんは苦笑した。
「わりとうまく打ててた方だと思うんですけど」
 僕が弁解すると、先生は杉浦さんと顔を見合わせた。
「次の手を考えて打ってた?」
「もちろんです。下手なりに白の打ち方を読んで打ちましたよ」
「ペア碁は相手の手よりパートナーの手を読まないとね」
「最後までちぐはぐな碁でしたね」
 杉浦さんは小さくため息をついた。
 駅までの帰り道、杉浦さんは珍しく黙っていた。気まずい沈黙だった。
「下手な碁でごめんね」
「そんな。別に謝らなくても」
 杉浦さんは困った顔をしてそれきり黙ってしまった。何を言っていいかわからなくなった。
「紺野くんの声ってバリトンだよね」
 突然、彼女が言った。
「そうかな」
「アナウンサーみたいな落ち着いた声だと思うよ。話し方は落ち着きないけど」
「ひどいな」
 僕は苦笑した。
「サークルにバリトンの先輩がいるんだけど、その人と紺野くんどこか似てる」
「声が?」
「いや、その先輩すごく練習熱心なの。いつも真っ先に来て発声練習してるくらい、とても歌が好きな人なの」
 前にお茶したタリーズが見えた。
「でも、みんなで合唱すると声が溶け合わないの。不思議なことに」
「それだけ練習熱心なのに?」
「たぶん、まわりの声が耳に入ってないんだと思う。声を溶け合わせようって気持ちが薄いんじゃないかな。それだと合唱にならないから。みんなが歌ってる中でソロを歌ってるだけだからね」
 杉浦さんは僕の顔を覗き込んだ。
「せっかく先生の教室に通うようになったんだから、これからたくさん打って強くなれるといいね。まずは初段目指して頑張って」
「そうだね。最近ネット碁やってるんだ」
「ネット碁? 私はやったことないな。面白い?」
「いつでも好きなときに打てるから楽しいよ。たまにサーバーエラーでフリーズしちゃって、勝ってる碁なのに負けちゃったりするけど」
 僕が笑うと、彼女も小さく笑った。
「中にはマナーの悪い人もいて、負けてる碁なのに延々と打ってくるからこっちが根負けして投了することもあるんだ」
「そうなんだ」
 杉浦さんはふーっと大きく息を吐いた。信号が青に変わった。
「味気ないね」
「えっ?」
「それって面白い? それって囲碁と呼べるのかしら」
「どういうこと?」
「だって実際に向き合って打ってたら、そんなこと相手に失礼でとてもできないでしょう」
「まあ、そうだね」
「そうだ。これ、ありがとう」
 彼女はハンドバッグの中からグールドのCDを出した。
「どうだった? 何か強引に貸しちゃってごめんね」
「いい曲だね。変な音が入ってたけど何だろう」
「あれはグールドの鼻歌。グールドのCDって鼻歌も一緒に録音されてるんだ」
「そうなんだ。面白いね」
 そう言った彼女の顔はちっとも面白そうではなかった。
「あ、きれいな月」
 彼女に言われて空を見上げると、高層ビルの隣に半月がくっきりと見えた。
「紺野くん。お礼に私もあげたいものがあるんだ」

【囲碁用語】
握り…棋力が同じ者同士は置石をせず、互先(たがいせん)で打つ。2局打つ場合は先番後手番を入れ替える。握りは一方が碁石を無作為に握って、偶数か奇数かを相手が当てれば相手の先番となる。
十五目半負け…囲碁における半目(はんもく)は勝ち負けをはっきりつけるためのルール。先に打つ黒番の方が有利なので、白番はコミ(ハンデ)として六目半もらえる。昔の囲碁はコミがなかったので、持碁(じご。お互いの陣地が同じ)という引き分けが生じていた。

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