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囲碁小説「手談」#17(最終話)

 えっ、という言葉を思わず飲み込んだ。
「手出して」
 言われるがまま、右手を差し出した。
「はい。これあげる」
 杉浦さんは僕の手に白石を一つのせた。
「何これ」
「碁石だよ」
「そんなのわかるって。これどうするの?」
「紺野くんに持っててほしいの」
「どうして」
「紺野くんが白番になる日がいつか来るかもしれないから」
「来ないよ、そんな日は」
 苦笑した僕の顔を杉浦さんはじっと見つめた。大きな瞳が光っていた。
 初めて会った日に僕を魅了した漆黒の碁石。教室の子供たちとお父さんを見てきた眼差しがいま僕に向けられている。
「そんなことないか。知らないうちに自分の限界作っちゃってるんだね。うん、頑張るよ」
「うん。頑張ってね」
 杉浦さんは腕時計を見た。
「遅くなっちゃった」
 そう言うとJRの改札へ歩き出した。腕時計を見たら八時過ぎだった。
「よかったらまたお茶でもどう?」
 今度はさらっと言えた。彼女は背を向けたままだった。
「杉浦さんともっといろんな話がしたいな」
 そんな言葉が自然に出てきたことにびっくりした。
「今日もたくさん話したじゃない。今までだって」
 杉浦さんが振り返って言った。
「そんな。話し足りないよ、僕には」
「紺野くん。手談って言葉聞いたことある?」
「手段?」
「手談って手に対談の談って書くんだけど、囲碁の別名なの」
「そうなんだ」
「囲碁って盤上に交互に石を置いていくことの繰り返しだけど、それって会話なのよ。無言だけど手を使って話してるの」
 彼女は遠い目をして微笑んだ。
「手談っていい言葉だと思わない? だから紺野くんともずいぶん話したと私は思ってる」
 杉浦さんはにこっと笑った。
「そうかもしれないけど、まだまだ話したいことたくさんあるよ」
「じゃあ、囲碁頑張ったらご褒美でまたお茶でも行きましょう」
「それじゃ、にんじん目当てに走らせる馬みたいじゃない。まあ僕は駄馬なんだろうけど」
 僕が笑うと杉浦さんも笑った。
「どんな馬でも走らないでいたら足が衰えるんじゃない?」
「そうだね」
「その白石、大事に持っててね。魔法の石だから」
「ただのプラスチックでしょ」
「ただのプラスチックかそうでなくなるかは紺野くん次第だと思うよ」
 彼女は僕を見つめて微笑んだ。
「ありがとう」
「じゃあ、また来週」
 杉浦さんが明るい笑顔で言った。
「また来週」
 僕も笑顔で言った。

 帰りの電車で「晩御飯、何かリクエストある?」と母にメッセージした。
 十分後に「それじゃ、お言葉に甘えて。特製カレーお願いします。帰り遅くなりそうだけど食べるね」と返信があった。やっぱりカレーなのかと苦笑した。
 スーパーで二種類のルーと牛肉と野菜を買った。朝に冷蔵庫を見てくるのを忘れたので必要な野菜は全部買った。
 袋詰めをしてたら、近くに「アルバイト募集」のビラが貼ってあった。
 今まで気づかなかった。置いてあったチラシを取って袋に入れた。
 冷蔵庫を見たら玉ねぎとにんじんがあった。余分に買ってしまったのになぜか嬉しかった。
 部屋にリュックを置いて、グールドの『ゴルトベルク変奏曲』をミニコンポにセットした。ドアを開けたままにして、バッハの旋律を聴きながら具材を煮込んだ。丁寧に灰汁を掬った。
 作り終えたら十時近くだった。母が帰ってこないので、先に部屋で食べることにした。ルーを二つ使ったせいか丁寧に灰汁を掬ったせいか、いつもよりおいしい気がする。
 ただの気のせいかもしれない。杉浦さんと話した余韻が僕を包み込んでいた。
 もらった白石を机に置くとコツンと音がした。引き出しを開けてクッキーの空き缶から文房具を出した。アルバイトのチラシと白石をしまった。
 カレーを食べながら母の好きなトークバラエティの時間だったことを思い出し、テレビをつけた。歌番組が映った。
 特番のフィナーレのようだ。出演者全員で『青い山脈』を歌っている。ベテランの男性演歌歌手、女性シンガーソングライター、売れっ子のミュージカル女優、いろんな歌い手たちが一列に並んで笑顔で歌っている。
 その中に僕の苦手な演歌歌手もいた。バラエティでおどけてるときより楽しそうな顔をしている。天井からは金銀の紙吹雪が大量に舞っている。
 彼の笑顔には媚びも衒いもなかった。他の歌い手たちと何ら変わらない笑顔だけがあった。
 やがて、エンドロールが流れ始めた。カメラがだんだんと引いていき、歌い手と満員の客席が映し出された。辺り一面に金銀の紙吹雪がきらきら舞い落ちていた。

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