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    カントかベルクソンでもよかったが、余りにも手軽に読めるものがないので偶々あんたになっただけだが愛してるぜ

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なぜ1+1=2になるのか?

 小学一年生の算数で〈1+1=2〉を習った時「おかしい」と思った。  先生は〈リンゴが1個〉〈ミカンが1個〉合わせて「何個?」  「2個」と疑いなく発表する友達を尻目に、自分はその答えに納得がいかなかった…  リンゴやミカンの〈1〉というのは、ひとつの存在である。  その説明だと、存在〈1〉同士を足したらバナナ〈2〉に変身したことになるが、では、そのバナナは一体どこから出てきたのか?  屁理屈なガキというのでなく、わりと純粋にその時はそう思った。  〈1+1〉の答

    • ユング2

       個人的無意識の内容というものが個人の生活史のなかで獲得されていくのにたいし集合的無意識の内容ははじめから生来的に存在している元型である。ユングは個人が外に向ける外的態度をペルソナと名づけ内に向けられた内的態度をアニマ(女性の場合はアニムス)と名付けた。  二つの態度は習慣化するにつれ頑丈になり自我はこれに同一化しようとする。ある人がペルソナと同一化しているとき彼の個性的な資質はアニマと結びついている。アニムス・アニマは両性具有である。男性の内的人格は女性的な性質を帯びてい

      • ユング1

         突発性難聴になった。知っていたし予感はあった。実証主義的な経験に基づく医者の話を形而下の現象として話半分(まじめに)聞いている時も半分は形而上学を夢見ている。意識で考えても駄目なのだ。形而上学が経験科学にそぐわない仕方で僕の経験に侵入してきたので無意識と対決するしかない。解釈のためユングを読んでいる。カール・グスタフ・ユングは科学時代にあり神秘主義に傾くいかがわしい医者なんて見方もあるようだがそうは思わない。書きながらヴィジョンを意識化する。  人間が社会的動物であるのは

        • 初盆

          スナップショット 大阪の路上にかつての自分を置いてみる。歩き疲れて入った喫茶店、フラスコへ注がれる黒い液体、そこに写る自分の顔を眺めていると、焦点がぼやけ、過去の記憶がイマージュとなり散在する。 あの喫茶店はどこにあるのか? あの路上の断片はどこにあるのか? 街中をほっつき歩くが、風景は別のものに入れ替わっている。いま船場をウロついたところで、谷崎潤一郎の『細雪』の面影はない。それなら感傷的な投影を捨て、あるがままに事物を写すことにする。 写真は現実の人や物を盗むことによ

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          平等のパラドクス

          アーレントは『人間の条件』で「活動」の章をはじめるにあたり、エピグラフにダンテの言葉を掲げた。 直観に触発されたとりとめのない思考の動きを回収してくれるのが「古典」である。 『人間の条件』は、政治理論の世界において参加型民主主義に強い影響を与えた20世紀の古典だが、この本はアーレントによるアリストテレス的実践哲学の現代的再解釈という性格があり、政治カテゴリーとして労働や仕事のモデルを政治に適用されることを否定するアーレントの政治観(失われた政治の復権、公的領域の復権を目指す)

          平等のパラドクス

          ハイデガーの方法論

          ハイデッガーは、「自己を観るのに必要なあり方」を実存論的カテゴリー呼び、カントの範疇と同様に、実存論的カテゴリーはアプリオリな精神の必然的な働きであると言い張る。 カントの範疇は、精神が精神以外の事物に秩序を与える必然的な仕方であったが、実存論的カテゴリーは、精神が自らを見る必然的なあり方である。 しかし、こうした実存論的カテゴリーはいかにしてそれを知るに至り、分析するこが可能なのか? カントが範疇をひき出してきたのは、伝統的な論理学の構造からだった。 ところが範疇と違い、実

          ハイデガーの方法論

          スマホ的存在者

          『存在と時間』第23節世界=内=存在の空間性をまとめながらつらつら 人間が世界への最初の関わりとして、世界を道具として使うということはアプリオリな一種の空間を前提にしている。 現存在が世界の「内に」存在するというのは、世界の内部で出会う存在者に親しみつつ、それと配慮的に交渉しているという意味においてなのである。 現存在になんらかの意味で空間性がそなわっているとすれば、それはこのような内=存在にもとづいてのみ可能である。 そしてこの内=存在の空間性は、開離という性格(実存範疇

          スマホ的存在者

          現存在とは自己自身が存在しているということに〝驚いている〟存在者のことである

          存在の意味への問いを問いとして立てることが当面の課題です。 存在とは何か? ではなく、存在について考えることは如何なることなのか? という問いを立て、ハイデガーはあることに気づきます。 今この問いを立てているこの俺、俺っていう存在者の存在にたいする意識は、存在しているじゃないか? それならば自らの問いの対象について、何事かを漠然と知っている私のぼんやりとした意識をもっと明確にしようじゃないか。 そのことに注意を向けるなら、問いを問うことの内には、何かしら問われているもの、問い

          現存在とは自己自身が存在しているということに〝驚いている〟存在者のことである

          『存在と時間』は存在について語っている本ではけしてありません

          『存在と時間』という自己啓発書を読む最大のコツは序論を徹底的に理解することです。ここさえ読めればその後ハイデガーがこの本の中で「何してるのか?」理解できるはずです。なので今回はガチ解説していきます。スタバのソファーでお読みください。どうせ自己啓発なんだから! テキストちくま学芸文庫版 『存在と時間』を始めるにあたり、ハイデガーはプラトンの『ソリステース』から上記のように引用した後、直ちにこうたたみかけます。 我々は「存在する」という言葉を使いほんとうに何を言おうとしている

          『存在と時間』は存在について語っている本ではけしてありません

          『存在と時間』は究極の自己啓発本である

          『存在と時間』は現存在の実存論的記述であるというその〝実存論的〟の意味がなんとなく分かってきたという話し(序論の序論のような解説) けっきょくこの本でハイデガーは何がしたいの? 例えば「世界」という概念のところで僕は気づいた。 ハイデガーのいう「世界」は、これまでの哲学的伝統に従った宇宙論的な実態ではなく、認識論的な知識でもなく、人間にとって「世界の内に在る」とは何を意味するのか? ということを調べているのである。 それだからハイデガーの言う「世界」という概念(自己、不安、

          『存在と時間』は究極の自己啓発本である

          写真家は事物を凝視する事物的存在である

          前回のまとめ〔世界にかかわるふた通りの態度〕 手元存在的(道具的存在)  我々と世界との原初的関係はまずそれを使うことである。つまり、世界は我々にとって使えるもの「手元にある」 ものである。私が世界を物として考えず、ただ使う時、私は世界を道具的に見ているのであり、ハイデッガーは世界を何か使うべきものとして見る態度を手元存在的と名づける。 手前存在的(事物的存在)  世界を機能や有用性とは無縁の事物から成り立つものとして見るのは、原初的関係ではなく、派生的関係である。物を物

          写真家は事物を凝視する事物的存在である

          〈世界=内=存在〉として私は配慮的気遣いで写真を撮る

          中平卓馬にハイデガーの影をみて実際に写真を撮りはじめたら少しだけハイデガーが読めるようになった(ので、つらつら書留) 自己とは何か? ハイデッガーは、カントが自己を存在論的に定義するに至っていないと批判する。 カントは、自己というものを人が経験において世界の中で出会うものとは何か異なった別のものとして見ているため、自己を「論理的空間の内に」残したままである。 自己についての問いは、存在論的な問いであるのに、カントは自己を一種の存在者としてしか扱わなかった。 では、自己の正

          〈世界=内=存在〉として私は配慮的気遣いで写真を撮る

          写真のススメ

          私心なき遊びで写真を撮り、撮ったものを見て、なぜ撮ったのかを考え、反省し、また撮り、このサイクルで生活に規律をつくることは、寺に通い座禅を組むような感覚である(通ったことはないけれど) 考えることが好きな僕にとって、いま写真を通して考え、考えたことが写真になってしまうという不思議な感覚におちいっている。 世界にたいする自己のかかわり方の結果が「撮られた写真」であり、写真を撮る行為は世界に対する意欲であり、きっとこのまま写真を続けていたら、もっと世界を愛でることができるのではな

          写真のススメ

          リアリズムに関するアフォリズム

          超国家主義の戦時下、「プロパガンダ報道写真」に関わった写真家の反省と反動が戦後起きたリアリズム写真運動なのだと思う。 軍事産業から立場を変えたカメラ産業は、市場拡大の為カメラムーブを作る必要があった。 編集者を頂点とした雑誌、企業、アマチュア写真家達による構造的イコンに祀り上げられた人物が土門拳である。 ちくま文庫から出ている『土門拳写真論集』を読んでいると、アマチュア写真家達のスナップショットを土門がレトリカルな批評で切りながら「写真とは何か?」を定型化する努力をしていて非

          リアリズムに関するアフォリズム

          写真は現実の引用である

            ベンヤミンは「歴史」を「廃墟」とみなす。人間の営みは、それがどれほどきらびやかでも、じっさいにはカタストローフ(破局)の山でしかない。「歴史の天使」は出来事の連鎖としての現われに比類なき残骸の山を見る。人間の歴史を眺める「歴史の天使」の眼差しは憂鬱だ。そしてこの憂鬱の目こそ、歴史哲学の精神でなければならない。人間たちが一歩歩むごとに廃墟は産出される。無限の高さをもつ廃墟のなかで「歴史の天使」は破壊された断片を寄せ集める。そうすることで、過去のなかにまだ可能性を残し、復権を

          写真は現実の引用である

          複製技術におけるSNS

           ヴァルター・ベンヤミンが、『複製技術時代の芸術』の中で、写真という複製技術が発達したことにより、芸術がもっていたその場限りのアウラが喪失したことを考察し、百年経とうとしているが、SNSにおけるエクストリーム複製技術時代を生きるわれわれにとって、最早ベンヤミンの主張は逆転しているように思う。 Instagramを例にとろう。 13年店を続け、3年前にこのソーシャルネットワークサービスを使い始めた。それから店という「場」のもつ意味(そのリアリティー、つまりアウラ)が変わったこと

          複製技術におけるSNS