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〈世界=内=存在〉として私は配慮的気遣いで写真を撮る

中平卓馬にハイデガーの影をみて実際に写真を撮りはじめたら少しだけハイデガーが読めるようになった(ので、つらつら書留)

自己とは何か?

ハイデッガーは、カントが自己を存在論的に定義するに至っていないと批判する。
カントは、自己というものを人が経験において世界の中で出会うものとは何か異なった別のものとして見ているため、自己を「論理的空間の内に」残したままである。
自己についての問いは、存在論的な問いであるのに、カントは自己を一種の存在者としてしか扱わなかった。
では、自己の正しい存在論的な性格づけとはどのようなものであるのか?
自己はカントの「孤立した主観」などではなく、世界内の他の諸々の存在者を「気づかう私」であり、自己は「配慮的気遣い」の現象の内に構成されるものである。
自己は一つの物であるというよりは、むしろ実存の一つの状態や性格とかいったものに思える。
それだから、我々はデカルト以来の孤立した主観を産む「我思う」の分析から出発するのではなく、自己を世界の内にある「我は気づかう」から分析しなければならない。
すると我々は自己を世界の内に在る者〈世界=内=存在〉としてアプリオリに規定することころから分析をはじめなくてはならない。
いったいどのような理由により、こうした存在論的な意味における〈世界=内=存在〉がアプリオリであるという主張がなされるのか?
我々は人間として事物や他の人間と関係を持っているが、それは我々が意識している関係であり、我々自身を変化させるような関係であり、無生物にはこのような関係を結ぶことはできない。
そこで次のように問うてみよう、我々がそうした関係を結びうる能力とは何か?
そのような能力があるとすると、そもそも我々の内にあらかじめ関係づけを可能とするような能力が何かあらなければならない。
このあらかじめある能力がアプリオリな実存論的カテゴリーとしてこの〈世界=内=存在〉である。
さてここで一つ明確になったのは、今や「存在についての問い」がどこから始められなければならないかということである。
それは我々がアプリオリにその「内に」居るこの「世界」とは何かということである。

世界とは何か?

科学的に言えば、私が地球なる天体(世界)に居ることはアプリオリではなく、ただ経験によってのみ知られることである。
一方で、〈世界=内=存在〉として私が住み、宿り、我が家と呼ぶべき世界を持たねばならぬということはアプリオリである。
この「内に在ること」は、単なる物理学的な時空の位置づけでなく、我々がかかわり、気づかい、関心を抱くべき物を所有することができるというアプリオリな「能力」のことである。
私を取り巻く「世界」は、ただそこにあるのではなく、それが私に働きかけ、私がまたそれらに働きかけるうちにある。
〈世界=内=存在〉の世界の見方(配慮的気遣い)はふた通りあり、ひとつは世界を道具として使用すること、つまり世界を手元存在的(道具的)に見ることである。
例えば、私が靴を外出のための手段として履き、散歩にでかける時、私は靴を私の行動の一要素のために存在するものとして「見て」片づけてしまっているのである。
もうひとつの見方は、物を独立して存在する事物と見て、世界を手前存在的(事物的)に見て、世界や事物を「対象化」することである。
例えばゴッホはそのように靴を見て、『農夫の靴』を描いた。
人はカントの言うように、もっぱら図式論にのっとった認識的な仕方で世界に関わるのではなく、世界の内に在ることの意味の探究こそ、私の居る世界なのである。

 ※そして世界と自己の架け橋が写真であるように思う。たとえゴッホのように描けなくても、少なくとも写真を撮るときには「見る」というスイッチが入るのだから。ゴッホのように事物存在的に世界を見る場合でさえ、私は世界を理解しうるものとするため私の概念を世界に押しつけているのだから、一枚の写真にも自分自身の性格が反映しているはずである。

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