見出し画像

『存在と時間』は究極の自己啓発本である

『存在と時間』は現存在の実存論的記述であるというその〝実存論的〟の意味がなんとなく分かってきたという話し(序論の序論のような解説)
けっきょくこの本でハイデガーは何がしたいの?

例えば「世界」という概念のところで僕は気づいた。
ハイデガーのいう「世界」は、これまでの哲学的伝統に従った宇宙論的な実態ではなく、認識論的な知識でもなく、人間にとって「世界の内に在る」とは何を意味するのか? ということを調べているのである。
それだからハイデガーの言う「世界」という概念(自己、不安、死、良心、了解といったものも全て同じなのだが)それらは哲学的な「定義」ではなく、人間の存在の「仕方」なのである。
ハイデガーにとって重要な問題は、世界が実際にどのように「在るか」ではなく、私にとって世界の内に「在る」とはどういうことか? なのである。
そうして「在る」ということの意味が明らかになってくるような存在様式をハイデガーは「実存論的」と呼び(それはカントの超越論的に対抗しているように思える)実存論的なものの性格の記述は経験から導きだされたものではなく、カントの範疇と同じように、経験に先立つアプリオリなものだとやや強引に述べる。
ハイデガー曰く、「実存論的分析は自己の存在の認識を可能とするアプリオリな条件の分析である」ってけっこう強引だなあ。
この辺りで僕は気がついた。
『存在と時間』って、哲学書じゃなくてエッセー(試論)じゃね? いやいや、試論とは本格的な哲学を構成する以前に試す論文(例えばベルクソンの『意識に直接与えられたものについての試論』)などと読み比べると、最早エッセーでもなく自己啓発じぇね? 人間の「生き方」について大いに語ってね? 稲森和夫じゃね? と思いはじめてきたのだ・・・
だから『存在と時間』を読むコツは、じつは「気軽に読む」ことである。スタバで読むことである。ベッドに転がり読むことである。
カントは『純粋理性批判』を十年以上かけて「完璧に体系立て」書いたが、ハイデガーは数年のノリで強引に書き散らかしている。しかしその分筆がのっていてオモロい。この本の使い方はウケるところを拾い読みすることなのだ。そう思いながら読むとなんだか随分楽しい本に思えてくる。
自己啓発の系譜がエマソンからはじまるならそこにニーチェもいる。ハイデガーがいたっておかしくないじゃないか。
ごちゃごちゃした造語を使い実存論的に記述しているが、この本の中身は普遍的原理を見出そうとする哲学ではなく、人生いかに生きるべきかについての自己啓発であり、カントの超越論的自我の自由の問題をそのまま引き継いでいるように思う。そう、やはりカントなのだ。存在の在り方を理性によって批判的に分析するカントに挑んでいるのだ。ハイデガーは、純粋哲学の抽象的な議論を避け、生きた人格を実存論的に記述する道を選んだ。道は開けた。マルティン・ハイデガーはデール・カーネギーになった。
師匠フッサールは、『存在と時間』を読んでブチキレたらしい。
俺から学んだ純粋哲学から離れて、お前自己啓発書いてるじゃん! PHP文庫じゃん! てことなんだと思う。
この本、全然構えて読む必要なんてないぞ。
難解な一文一文を読みながら末尾にこうつければよいのだ。
でもハイデガーさん、それってあなたの感想ですよね?
(もちろんこれは僕の感想です)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?