なぜ1+1=2になるのか?
小学一年生の算数で〈1+1=2〉を習った時「おかしい」と思った。
先生は〈リンゴが1個〉〈ミカンが1個〉合わせて「何個?」
「2個」と疑いなく発表する友達を尻目に、自分はその答えに納得がいかなかった…
リンゴやミカンの〈1〉というのは、ひとつの存在である。
その説明だと、存在〈1〉同士を足したらバナナ〈2〉に変身したことになるが、では、そのバナナは一体どこから出てきたのか?
屁理屈なガキというのでなく、わりと純粋にその時はそう思った。
〈1+1〉の答えは〈1と1〉である。
これが正しいと、じつは今でも半分思っている。
考えてみると、自分はもうこの時点で学業に躓いているのだけど〈1+1=2なぜ?〉という疑問はずっと持ち続けていた。
先生も親も古今東西の著作も、この疑問には答えてくれない…
〈1と1〉の数の和から〈2〉というまったく新しい概念が産出されるのはなぜか?
〈1〉という主語概念に結びついてはいるが、しかしこれとはまったく異なる述語概念〈2〉を数学的に付け加える未知の〈X〉は何か?
長年の問いに答えてくれたのが、カントだった。
数学的命題は全てアプリオリな綜合的判断である。
ちょっと詳しく書いてみようと思う。
純粋数学はどうして可能か?
あらゆる認識は判断の形をとり、
主語と述語の関係で構成される判断は二つの形に分かれる。
1.分析的判断(マルゲリータ)
『いかなる物にもこの物と矛盾する述語を付することはできない』という命題は矛盾律と呼ばれ、一切の真理の一般的な標徴である。それだから我々は矛盾律をあらゆる分析的認識の普遍的な原理と見なさねばならない。
2.綜合的判断(和風もちベーコンピザ)
分析的判断にあって与えられた主語概念について何ごとかを言うためには、私はこの概念にとどまっているだけでよい。ところが綜合的判断にあっては、私は与えられた概念の外に出て、この概念において考えられているところのものとはまったく別のものを、この概念に関係させて考察する。それだから主語と述語の関係は、同一性の関係でもなければ矛盾の関係でもなく、与えられた概念を他の概念と綜合的に比較するためには、この与えられた概念の外に出なければならない。
詳しくはこちらで説明した。
カントは言う、
数学は分析的方法によって出来ているように思われるが、
実はそうではない。
ごく単純な足し算でさえも、
我々は分析によって答えを導き出すことはできない。
分析的方法は概念のなかに含まれているものを引き出すことに他ならないから、
あらかじめ含まれていないものを分析によって取り出すことはできないのだ。
つまり〈1+1〉の答えが〈2〉であることを、
いくら分析的方法で導き出そうとしても〈1と1〉の和という概念はあくまで〈1と1〉の和でしかなく、
そのなかに〈2〉という数字は含まれてはいない。
では〈1+1=2〉という答えを人はどうやって手に入れているのか?
感性による直観によって手に入れるのである。
例えば人間は物の形を見てそれが丸や四角など一瞬で理解し、
そこにはどんな推論も判断も理屈も入り込む余地がない。
それが感性による直観であり、
足し算の答えも基本的に人は直観よって手に入れているのである。
カントは〈7+5=12〉を手と足の指を折って一つ一つ数えて見せるという説明の仕方をしている。
人間は〈7〉に〈5〉を足すとき、
以下のようなプロセスを意識せず頭の中で一瞬でやってみせ、
〈12〉という答えを出すというのだ。
たとえ私が、この二数の合一によって生じ得る和の概念を、いくら長いあいだ分析してみたところで、その分析のなかには「一二」という数を見出せないだろう。そこで我々はこの〔七と五という〕二数のうちの一つに対応する直感を援用して―例えば、私達の五本の指などを使って、この直感において与えられた五個の単位を「七」という概念に順次に付け加えていくことによって、「七および五」という概念を超えてそのそとに出なければならない。それだから我々は〈7+5=12〉という命題によって、我々の概念〔7+5〕においてはまったく考えられていなかった新しいもの〔12〕をこれに付け加えるのである。要するに算数学の命題はすべて綜合的命題である。このことは、我々が何かもっと大きな数をとってみると、もっとはっきりわかる、そうすれば我々に与えられた概念をいくらひねくり回したところで、直感を援用しない限り、ただこれらの概念を分析するだけではとうていその和を見出せるものではないからである。
『プロレゴメナ』
人間は自分の五本指の表象という直観に頼り、
この直観において与えられた五個の単位を七という概念に付け加え、
七と五という両つの概念の外へ出て十二という数を生じさせる。
さらにカントは、
人類で初めて二等辺三角形を論証した人の心に浮かんだ一条の光に思いをはせる。
古代エジプト期など、数学には長い模索の時期があった。それが急転して、一個の確実な学になったのは、一つの革新を経たお蔭である。この革新は、或る一人の人が或る試みをなすに当たり、素晴らしい着想を得たことによって生じた。このひと以来、数学者は行くべき道に踏み迷うことなく、学として確実な道を開いた(中略)彼は、自分がこの図形において現に見ているところのものや或は図形のたんなる概念などを追求して、これらのものから図形のさまざまな性質を学び取るというのではなくて、彼が概念に従って自分でアプリオリに件の図形のなかへいわば考え入れ、また現示したところのものによって、この概念に対応するところの対象を産出せねばならないということ、また彼が何ごとかを確実にかつアプリオリに知ろうとするならば、彼は自分の概念に従ってみずから対象のなかへ入れたところのものから必然的にしょうじる以外のものを、この対象に付け加えてはならない、ということを知ったからである。
『純粋理性批判第二版序文』
人間は生起するものの概念に、
これとはまったく異なる何か或るものをその述語として付け加え、
ピラミッドを作り、スカイツリーを作り、スペースシャトルを作った…
そのようなことが可能なのも、
純粋数学が経験からはとうてい得られないような必然性を備えており、
いかなる経験にも依存しないアプリオリな認識だからである。
数学的判断は命題の主語概念を超えその外に出て、
この概念に対応する純粋直感(空間および時間)が含むところのものに達するアプリオリな綜合的判断なのである。
純粋悟性カテゴリー
認識が直接に対象と関係するための方法は直観であり、
直観によって表象を受けとる能力を感性と言う。
対象は感性(認識の受容性)を介して我々に与えられ、
感性のみが我々に直観を給する。
空間と時間は認識の源泉であり、
これらの源泉からアプリオリな綜合的認識が汲み出され得る。
例えば幾何学の根底には空間という純粋直観があり、
算数学は時間において単位を付け加えることによって数概念を成立せしめる。
人間は空間と時間の形式において純粋数学が確然的であると同時に必然的なものとして現れる認識および判断の根底に置くところの純粋直観を知る。
つまり数学は、
アプリオリな総合的判断の素材が与えられ得るところの純粋直観を欠くと一歩も進むことができない。
数学の命題は概念によって説明され得るものではなく、
アプリオリな純粋直観に基づき確実性をもって総合的命題を可能ならしめる。
とりわけ数学は空間の認識に関して一つの立派な実例を示す。例えば『三角形の二辺の和は他の一辺よりも大である』という幾何学的命題は、我々の空間に関するアプリオリな直観が一切の概念の根底に存していて、そこから必然的確実性をもって導来されたものだと判る。幾何学は空間の性質を綜合的(しかもアプリオリ)に規定する学であり、直線や三角形という概念からはその概念の外に出るような命題を引き出すことはできないのに、対象に関する知覚より前に我々の心に具わる直観によって幾何学は空間の表象を可能にする。
『純粋理性批判第二版序文』
我々は数学において与えられた命題の外に出ようとする場合、
この命題には含まれていないがこれに対応するところの直観においてアプリオリに発見され、
命題に綜合的に結びつけられえるところのものを空間および時間において見出す。
そうして与えられた対象は悟性によって考えられ、
悟性(認識の自発性)から概念が生じる。
感性がなければ対象は我々に与えられないし、
悟性がなければいかなる対象も考えることができない。
この両者が結合してのみ認識は生じ得る。
※ここで大切な注を入れると、感性(空間時間という条件のもとでのみ可能)によって我々に与えられているのは〈物自体〉ではなく、対象の現れであるところの〈現象〉だけであり、対象そのものは決して我々には知られない。
さて、
数学的認識はその概念を経験的にではなく、
アプリオリな直観において現示するが、
なぜ我々は個人の経験や文化や歴史を超え〈1+1=2〉という共通の認識(アプリオリな綜合的判断)をもてるのか?
なぜ人間だけが何か或るものをアプリオリに直観することが可能なのか?
直観は表象(対象が現在すること)によって規定される訳だから、
対象が与えられる以前(アプリオリ)に何かを直観することは、
普通に考え不可能のように思える…
ところが概念のなかには、
我々が直接対象に関係しなくても、
アプリオリにこれを作り得るようなものがあるのだと言う。
それは対象一般の思惟だけを含むようないくつかの概念、
例えば〔量〕の概念とか〔原因〕の概念などである。
我々は感性的直観の形式により対象をアプリオリに認識するが、
この直観形式により対象をあるがままに認識するのではなく、
対象が我々の感官に現れ得るままに認識するにすぎない(コペルニクス的転回)
つまり直観が判断作用の様式に関して必然的に規定されている限り、
今度は純粋悟性概念がかかる直観と厳密に対応してくるのだ。
要するにひとつの綜合的判断を必然的なものとして規定するには、
直観を判断の形式としてそれ自体規定されたものとして表示する概念が必要となり、
直観を総合的に統一するこの概念こそ悟性カテゴリーである。
そこであの悟性カテゴリーの、
ややこしい十二個の判断様式が出てくる訳だが…
その前に、
分かりにくいのでもう少し説明を加えたい。
〈1+1〉の命題が直観により与えられると、
我々の語性は発動して〈2〉という答えを出す訳だが、
するとそこから悟性能力そのものを分析する必要がある。
悟性の一切の作用は何かを判断することであり、
つまり悟性とは判断の能力と考えられる。
すると我々がこの判断における統一の機能を完全に網羅することができれば、
悟性の一切の機能は残らず発見できることになる。
判断の含む様々な表象に統一を与える悟性機能は、
直観により与えられた様々なものの綜合に統一を与え、
悟性の表象に先験的内容を配する。
この表象が純粋悟性概念であり、
直観の対象にアプリオリに関係する純粋悟性概念には以下のカテゴリーがある。
悟性は自らの内にこれらの概念をアプリオリに含んでおり、
悟性はこれらの悟性概念によってのみ直観における多様なものについて何か或ることを理解しえる(直観の対象を考えられることができる)
上記のカテゴリー表の区分は悟性の一切の基本概念の形式を含み、
判断する能力に基づき体系的に作製されたものである。
このうちカテゴリー表の第一類〔分量と性質〕は直観の対象に関係し、
第二類〔関係と様態〕はこれらの対象と悟性の関係における実際的存在に関係する。
数学は直観の規定によって対象のアプリオリな認識を現象としての対象の形式に関してだけもつことができ、
その際カテゴリーが経験的認識を可能ならしめる。
カテゴリーとは現象に法則をアプリオリに指定する概念なのである。
ところで岩波文庫『純粋理性批判』は第二版であり、
一版と二版の間には6年の歳月がある。
カントはこの間批判に大幅に手を加えた。
この文章の一部分(悟性概念)は上巻173-208頁迄の『純粋悟性概念の演繹』という章をもとに書いたが、
じつはこの箇所は一版のものであり(そもそもこの章を書くのに11年もかかっているのだが…)二版で全て書きかえらた章が下巻に付録されている。
ここはけっこう難解で、
しかし〈1+1=2〉という命題を完全に解明するには、
読み飛ばす訳にはいかない…
現在私は中巻迄再読中である。
最後まで読みきったらもう一度〈1+1=2〉という命題に挑戦(あるいはこの文章を加筆)していきたい。
ええっと…
つまり現時点で「なぜ1+1=2になるのか?」一言で説明すると…
ようするに…
「人間にはそのような能力がアプリオリにあるから!」
と強引に結論付けしておく(笑)
(実はこの文章は私なりに上巻をまとめたものであった)
おわり
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