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カントを読む

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カントを読みながら思ったこと
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政治と美学の親和性

カントは、『純粋理性批判』で理論理性の能力により「自由」が完全に埋没してしまわないようにするため、『実践理性批判』で「自由」を意志の中に収容し、現象(フェノメノン)ではなく物自体(ノウーメノン)の中に保持し、定言命法の下で云々…これらがカント哲学のオーソドックスな読みである。 しかし、そうではなかったのだ。 じつは『判断力批判』の中にこそ、カントの「自由」の核心はある。 これがアーレントの読みである。 この本を読みながら思ったことがある。 コロナ禍にわれわれに突きつけられてい

『プロレゴメナ』第五三節

アンチノミーの第一種(数学的部類1と2)においては、相反する二つの主張は正・反両命題は双方ともに偽であったが、これに反して第二種(力学的部類3と4)の場合には、双方の主張は、共に真であり得る。… 自然必然性は現象にのみ関係し、自由は物自体にのみ関係するというのであれば、たとえ二通りの原因性〔自然法則および自由の原因性〕を想定しても、決して矛盾は生じない。 もっとも自由の原因性を理解させることは極めて困難であり、或いは不可能であるかも知れないが。… 宇宙論的意味における自由

序論まとめその3(48-67頁)

Ⅶ自然の合目的性の美学的表象について 或る対象が合目的と呼ばれるのは、対象の表象が快の感情と直接に結びついているからにほかならない。そしてかかる表象が即ち合目的性の美学的表象なのである。  快が表象の客観に関係するのではなくて、主観にのみ関係する場合に表現し得るのは、客観と我々の認識能力、即ち反省的判断においていわば自由に遊ぶところの悟性および構想力との適合であり、客観(対象)な単なる主観的合目的性にほかならない。  対象の形式を構想力のなかへ補足することは、反省的判断力が

序論まとめその2(上巻36-48頁)

Ⅳアプリオリに立派する能力としての判断力について 判断力一般は、特殊を普遍のもとに含まれているものとして考える能力である。  もし普遍(規則、原理、法則)が与えられていれば、判断力は特殊をこの普遍のもとに包摂する。そしてこの場合の判断力は〔規定的判断力〕である。  ※我々に可能な一切の直観がアプリオリに与えられている限りにおいて、かかる直観の形式的条件に適用されたカテゴリーに基づく。(42頁)  しかし特殊だけが与えられていて、判断力がこの特殊に対して普遍を見出だすというこ

序論まとめその1(上巻21-35頁)

I哲学の分類について 哲学が、概念によって物を理性的に認識する原理を含む限り、哲学を、理論的哲学と実践的哲学とに区分することは、確かに当を得た遣り方であり、上記二通りの原理それぞれに対象を指示するところの概念も〔自然概念〕と〔自由概念〕と二通りある。  そのうち前者は、アプリオリな理論的認識を可能ならしめる概念である。 これに反して後者は、理論的認識に関しては、単にこれと対立するという消極的原理を自分自身のうちに含んでいるにすぎないが、しかし他方では意志規定を拡張するような

天才論(上巻256-277頁)

 天才とは、芸術に規則を与える才能(自然の賜物〔天分〕)のことである。  ①天才は、何か或るものに対して一定の規則が決して与えられ得ないようなものを産出する一瞬の才能である。即ち天才は、なんらかの規則に従って習得され得るものに対する生得の器用さのようなものではない。それだから独創こそ、天才の第一の特質でなければならない。 ②しかしまったく無意味な、取るに足りない独創というものもあり得るから、天才の所産は同時に模範即ち範例を示すものでなければならない、従って模倣によって生じ

目的論的判断力の方法論 ついでに、いまSDGsとか言ってるピュアなアホが読むべき内容

 相変わらず弁証論は無味乾燥なのでとばします( ;∀;)  目的論的は自然科学に属するのか? それとも神学に属すのか? 学としての目的論は、積極的な理論に属するのではなくて批判に属する、しかも特殊な認識能力即ち判断力の批判に属するのである。 131-212頁要約抜粋 我々は前章でこういうことを述べておいた(126-127頁)我々は人間を、すべての有機的存在者と同じく自然目的と見なすばかりでなく、この地上の世界における自然の最終の目的と判定するに十分な(規定的判断力に対して

目的論的判断力の分析論(下巻10〜54頁) ついでに、SDGsとか地球温暖化とか言いながら家畜の肉食ってイベントの打ち上げしてるアホはこの辺からやり直せバカ

機械論(時計の比喩)  時計のなかの一つの部品は他の部分を動かす道具である。しかし一つの部分は他の部分のために存在しはするが、しかし他の部分によって存在するのではない。つまり歯車は他の歯車を産出する作用原因ではない。それだから時計とその形式とを作り出すところの原因は、かかる物質の自然のなかに含まれているのではなくて、自然と異なる或る種の存在者(その原因性によって可能であるような全体という理念に従ってはたらく存在者)のうちに存するのである。  従って時計は、取り去られた部分を自

崇高の分析論メモ(144〜205頁)

 美は不定な悟性概念の表示と見なされるが、崇高は不定な理性概念の表示と見なされる。それだから適意は、美の場合は性質の表象と結びつくが、崇高の場合には分量の表象と結びつく。  我々は、嵐のなかの大洋そのものを、崇高と呼ぶことはできない。かかる海洋そのものは怖しい光景である、そして我々がこのような怖しい光景を観て或る種の感情(それ自身崇高であるようは感情はなふさわしい心的状態)をもつためには、我々の心意識をすでにさまざまな理念で充しておかねばならない、即ちその場合に心意識は感性

趣味判断の第四様式『様態』まとめ

二二 趣味判断において考えられる必然性は普遍的同意の必然性である、これは一種の主観的必然性であるがしかし共通感という前庭のもとでは客観的必然性と見なされる 我々は、或る種の判断によって何か或るものを美と断定し、この種の判断においては、ほかの人達が我々と異なる意見をもつことを許さない、それにも拘らず我々の判断は概念に基づくのではなくて、まったく我々の感情に基づいて行われるのである。そこで我々はこの感情を、個人的感情としてではなく共通的感情〔共通感〕として、かかる判断の根底に置く

趣味判断の第三様式『関係』まとめ

一七 美の理想について 美学的判断の規定根拠は、判断する主観の感情であって、客観の概念ではない。  それだから我々は、趣味の所産の或るものを範例(他者の模範を模倣することによって趣味が習得せられ得るという意味ではなく、独自の能力としての趣味)と見なすのである。  してみるとこういうことが判る、即ちー最高の模範即ち趣味の原型は、各人が自分自身のうちでみずから産出せねばならないようは理念にほかならない、そして彼は他のすべての人の趣味をすら、この理念に従って判定せねばならない、とい

趣味判断の第一様式『性質』まとめ(70〜83頁)

一 趣味判断は美学的判断である 何か或るものが美であるか否かを判断する場合には、その物を認識するために表象を悟性によって客観に関係させることをしないで(※おそらくカントは量概念のことを言っている)構想力によって表象を主観における快・不快の感情に関係させるのである。それだから趣味判断(趣味とは、美を判断する能力である)は認識判断でも論理的判断でもなく、美学的判断(判断の規定根拠が主観的なものでしかあり得ないということ)である。  ※カントは、趣味判断の第一様式として『性質』から

趣味判断の第二様式『分量』まとめ(84-99頁)

六 美とは概念を用いずに普遍的適意の対象として表象されるところのものである 何びとといえども或る対象に関する彼の適意が『一切の関心にかかわりのない』ものであることを意識する限り、彼の適意には同時にすべての人に対する適意の根拠〔普遍性〕が含まれていなければならないという判定に達せざるを得ないからである。  ※あくまでも量的にということか? 七 上述の標徴によって美を快適および善と比較する 快適なものに関しては、各人が各様の趣味をもっているという原則が当てはまる。それだから彼が

焼き魚定食しかない自由

 自由ということは、漠然的に「ある」こととして考えられている。  しかし、本当にそうなのだろうか?  岩波文庫から新訳で出た『ペスト』を、ぱらぱら読んでいた。  新潮文庫版で三回は読んでいるが、やはり読み返すと、その時々で思うことがある。  それは、災禍など起こるはずがないということが前提だった。彼らは商取引を続け、旅行の準備をととのえ、自分達の主義主張を抱いていた。未来も移動の自由も議論をも奪うペストのことを考えるなど、どうしてできただろうか。彼らは自由であると信じて