序論まとめその1(上巻21-35頁)

I哲学の分類について

 哲学が、概念によって物を理性的に認識する原理を含む限り、哲学を、理論的哲学と実践的哲学とに区分することは、確かに当を得た遣り方であり、上記二通りの原理それぞれに対象を指示するところの概念も〔自然概念〕と〔自由概念〕と二通りある。

 そのうち前者は、アプリオリな理論的認識を可能ならしめる概念である。
これに反して後者は、理論的認識に関しては、単にこれと対立するという消極的原理を自分自身のうちに含んでいるにすぎないが、しかし他方では意志規定を拡張するような原理を確立する、それだからこの原理は実践的と呼ばれるのである。
 そこで哲学は、それぞれの原理に関してまったく相異なる二つの部門〔自然哲学としての理論的哲学〕と〔道徳哲学としての実践的哲学〕とに区部されて然るべきである。

 自然概念と自由概念というこの区別は、本質的なものである。
 原因性を指定する概念が自然概念であれば、その原理は〔技術的ー実践的〕なものだし、これに反してかかる概念が自由概念であれば、その原理は〔道徳的ー実践的〕なものである。
 これらの相異なる対象の認識は、それぞれ理論哲学と実践哲学という相異なる原理を必要とするのである。

 技術的ー実践的規則(或いは人間の意志に影響を与える熟練としての怜悧の規則)などは、その原理が概念に基づく限り、いずれも『系』としてのみ理論的哲学に加えられねばならない。かかる規則は、自然概念に従って物を可能ならしめるというだけだからである。そしてそのために自然において見出され得る手段ばかりでなく(自然能力として欲求能力としての)意志すら、自然的動機によってこれらの規則に適合するように規定される限り、自然概念に属するのである。(※要するにフェノメノンとしての人間存在を言っているに違いない)
 ところが意志は、自然概念だけに従うものではなくて、それと同時に自由概念にも従っている(※要するにノウーメノンとしての人間存在を言っているに違いない)そこで意志の原理は、かかる自由概念に関してのみ法則と呼ばれるのであり、このような原理だけが、それから生じる結果と共に、哲学の第二部門即ち実践的部門を成すのである。

 それだから家政、経営、国家経済、交際術、一般的幸福論ですら、実践哲学に数えられるものではなく、哲学の第二部門を成す分際のものではないのである。このようなものは、所詮は〔技術的ー実践的〕規則にほかならない熟練の規則を含むだけであり、けっきょく理論的哲学(自然科学としての)から引き出された単なる『系』としての指示に従属するわけである。
これに反して飽くまで自由概念に基づき、意志の自然的規定根拠を完全に排除するところの〔道徳的ー実践的〕指示は、自然法則のように感性的条件に基づくものではなくて、超感性的原理を基礎としているため、まったくそれ自体だけでいま一つの部門を実践的哲学という名のもとに要求するのである。

 実践的指示の総括が哲学の特殊な一部門を成すのは、これらの指示の原理が、常に感性的条件に従うところの自然概念から得られたものではなくて、超感性的なものに基づいているという理由によるのであり、そしてこの超感性的なものこそ、じつに自由概念だけが、形式的法則によって識知せしめるところのものであり、さればこそこれらの指示は〔道徳的ー実践的〕なのである。

Ⅱ哲学一般の領域について

 我々の認識能力は〔自然概念〕の領域と〔自由概念〕の領域により、それぞれアプリオリに立法を行う。そこで哲学もまたこれに応じて、理論的哲学と実践的哲学とに区分される。
自然概念による立法は悟性によって行われ、その立法は理論的なものである。また自由概念による立法は理性によって行われ、その立法は実践的なものにすぎない。理性は、実践的なものに関してのみ立法的であり得る。自然の理論的認識に関しては、理性は悟性を介して与えられた法則から推理によって結論を引出し(自然の範囲内にだけ止まり)得るにすぎない。
 それだから悟性と理性とは、経験という同一の地域においてそれぞれ相異なる立法権を保有し、しかも一方は他方を侵害する必要がないのである。

 純粋理性批判はこのことに対する異議を、弁償的仮象の正体を暴露することによって悉く粉砕した。
 しかし相異なる二つの領域は、確かに各自の立法においてこそ互いに侵害し合わないにせよ、しかし感覚界においてそれぞれ生ぜしめるところの結果においては絶えず制限し合っている。
 そしてこれらの領域が一個の領域を成さない理由はまさに次の点にある、即ちー自然概念は、その対象を直観において表情しはするが、しかしこれを物自体としてではなく単なる現象として示す にすぎない、これに反して自由概念は、その対象において物自体を示しはするが,しかしこれを直観において表示するものではない、ということである。

 自然概念の領域は感性的なものであり、自由概念の領域は超感性的なものである。 
 たとえこの両領域の間に測り知れぬほど広大な深淵が漠然と横たわっていて、自然概念の領域から自由概念の領域への移り行きがまったく不可能であるにせよ、それにも拘らず超感性的世界は感性的世界に対して影響を及ぼすように定められている。即ち自由概念は、その法則によって課せられた目的を感覚界において実現するように定められているのである。
 従って自然は、その形式の合目的性が自由の法則に従い自然において実現されるべき目的の可能と少なくとも一致調和する、というふうに考えられ得ねばならない。
してみると自然の根底に存する超感性的なものと、自由概念が実践的なものとして含んでいるところのものとの統一の根拠が必ずや存しなければならない。
 たとえ超感性的なものの概念は、理論的にも実践的にもかかる超感性的なものの認識に達し得ないにせよ、それにも拘らず感性的世界の原理に従う考え方から、超感性的世界の原理に従う考え方への移り行きを可能ならしめるのである。

Ⅲ哲学の二部門を結合して一個の全体とする手段としての判断力批判について

 自然概念は、アプリオリな一切の理論的認識の根底を含み、悟性概念の立法に基づいている。
 自由概念は、感性的条件にかかわりのない一切のアプリオリな実践的指定の根拠を含み、理性の立法に基づいている。
 ところで上級認識能力の仲間には、悟性と理性のほかに、この両者をつなぐ中間項があり、それが即ち判断力なのである。
 すると我々は判断力について次のような推測を試みる理由をもつわけである。
 判断力は、たとえ自分に特有の立法を含まないにせよ、それにも拘らず悟性や理性と同様に、法則を求める(主観的なものにせよ自分に特有な原理をアプリオリに含んでいてもよいのではあるまいか)という推定である。

 およそ一切の心的能力或は素質的能力は、三通りの能力に還元され得る。
 認識能力、快・不快の感情、欲求能力の三つである。
 この認識能力が理論的認識の能力として自然に適用される場合には悟性だけが立法的であり、自由概念に従う上級認識能力としての欲求能力に対しては、理性だけが立法的である。
 ところで悟性と理性との間に判断力が介在しているように、認識能力と欲求能力との間には快・不快の感情が介在している。
 すると差し当たり次のことが推測されるわけである。
 判断力は、悟性および理性と同様に、それ自体だけでアプリオリに立法する(法則を与える)原理を含んでいる。
 また欲求能力には必然的に快・不快が結びついているから、判断力は、自然概念の領域から、自由概念の領域への移り行きを成就するだろう、そしてそれはこの判断力が、論理的使用において悟性から理性への移り行きを可能ならしめるのとまったく同様である。

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