序論まとめその2(上巻36-48頁)

Ⅳアプリオリに立派する能力としての判断力について

 判断力一般は、特殊を普遍のもとに含まれているものとして考える能力である。
 もし普遍(規則、原理、法則)が与えられていれば、判断力は特殊をこの普遍のもとに包摂する。そしてこの場合の判断力は〔規定的判断力〕である。
 ※我々に可能な一切の直観がアプリオリに与えられている限りにおいて、かかる直観の形式的条件に適用されたカテゴリーに基づく。(42頁)

 しかし特殊だけが与えられていて、判断力がこの特殊に対して普遍を見出だすということになると、この場合の判断力は〔反省的判断力〕である。
 〔規定的判断力〕は、特殊を悟性の考える普遍的先験的法則(普遍)のもとに包摂するにすぎない。この場合に判断力は、自分自身のためにことさらに法則を求めなくても、自然における特殊を普遍のものに従属させることができるのである。

 ところが、自然にある多様な形式の中には、純粋悟性がアプリオリに与えるところの〔法則普遍的自然法則〕によっては規定されずに残されてしまうものがある。
 〔反省的判断力〕の責務は、自然における特殊から普遍へ昇っていくことである。
 この判断力もやはり、自然における多様なものを統一するような原理を必要とするが、しかしこれを経験から得てくることはできない。
 それだから〔反省的判断力〕は、かかる先験的原理を自分自身に法則として与え得るだけであって、これを外部から得てくることも自然に指示することも(もしそうだとしたら、この判断力は規定的判断力になってしまうだろう)できない。
 自然法則に対する我々の〔反省〕は、こちらから自然に適合することを建前とするものであり、自然が我々の側の条件に従うものではない。
 そもそも自然の概念は、このような条件に関してはまったく偶然的であるにも拘らず、我々はややもすればかかる条件に従って、自然の概念を求めたがるのである。

 するとこのような原理は、けっきょく次のようなものでしかあり得ないということになる。

 普遍的自然法則の根拠は、我々の悟性のうちに存する。つまり我々の悟性がこれらの自然法則を自然に指示するわけである。
 ところが、経験的な自然法則には、普遍的自然法則によって規定されずに残されたものが含まれている。
 そこでこれらの仕残しに関し、ある種の統一に従って(我々の認識能力にかんがみて特殊的自然法則に従う経験の体系を可能ならしめるために予め与えられておいたものがあるかのような統一に従って)考察されねばならない、ということである。

 しかし我々は、かかる〔統一の理念〕を実際に存在するものとして想定してはならないだろう。
 このようや理念は、規定するためではなく反省するために、我々の〔反省的判断力〕の原理の用をなすにすぎない。
 要するに〔反省的判断力〕は、自分で自分に法則を与えるだけであり、自然に法則を与えるのではない。

 ところで、ある対象の概念は、それが同時にその対象の現実性の根拠を含む限りにおいて〔目的〕と呼ばれる。
 また或る物が、目的に従ってのみ可能であるような性質と合致すれば、この合致はその物の形式の〔合目的性〕と呼ばれる。
 それだから〔反省的判断力〕の原理は、経験的自然法則一般に従う自然における物の形式に関するものとして、多様性をもつ自然の〔合目的性〕である。
 要するに自然は、〔合目的性〕という概念によって、あたかも或る種の悟性が多様な経験的(特殊的)自然法則を統一する根拠を含んでいるかのような工合に考えられるのである。

 自然の〔合目的性〕というアプリオリであるが一個の特殊な概念の根原はまったく〔反省的判断力〕のうちにのみ存し、我々は〔自然の合目的性〕という概念を用いて、自然における現象の結合に関して、自然の所産に〔反省〕を施すことができるだけである。
 なおこの概念は、実践的合目的性(人間の技術や道徳における合目的性)との類比に従って考えることができるにせよ、しかしこれとはまったく異なるものである(※自由意志の規定という理念において考えられなばならない実践的合目的性の原理は、先験的原理ではなく、形而上学的原理のため39-40頁)

Ⅴ自然の形式的合目的性の原理は判断力の先験的原理である

 〔自然の合目的性〕という概念が先験的原理に属していることは、〔反省的判断力〕の格律(主観的原理)から十分に看取せられ得る。そしてかかる格律が自然研究の根底にアプリオリに置かれるのである。

 〔自然の合目的性〕というこの概念は、〔自然概念〕でもなければ〔自由概念〕でもない。この先験的概念は、対象(自然)に何か或るものを帰するのではなくて、完全に関連を保つような一個の経験に達するために、我々が自然における対象を〔反省〕する場合に従わねばならぬ唯一の仕方を示すにすぎない、要するにこの概念は、判断力の主観的原理〔格律〕なのである。

 〔自然の合目的性〕は明らかに我々の認識能力から発現し、さればこそこの〔合目的性〕が、我々の認識能力とその使用とにとって判断の先験的原理となるのである。
 従って〔自然の合目的性〕は先験的演繹を必要とし、我々はかかる演繹を用いて、このように判断する根拠を認識源泉においてアプリオリに探求せねばならないのである。

 〔自然の合目的性〕という概念の演繹が正しいこと、この概念を先験的な認識原理として必然的に想定せざるを得ないことを認識するためには、我々が当面する課題ー無限に多様な経験的法則を含む自然によって与えられた知覚を、完全な関連を保つ一面の経験に仕立てるという課題の重大さを思いみるだけでよい。

 判断力は、主観的格律においてだけにせよ、自然を可能ならしめるアプリオリな原理を自分自身のうちに具えているが、しかしこれによって自然のそのものに法則を指示する〔自然に対する自律〕ではなく、自然に対して反省を施すために自分自身に法則を支持する〔自分自身に対する自律〕である。

 我々は、自然がその普遍的法則に関して、どのように仕組まれていようとも、〔自然の合目的性〕の原理と、この原理に基づくところの格律とに従って、経験的自然法則を探索せねばならない。
 我々はこの原理が成立する限りにおいてのみ、経験における悟性的使用を進歩させ、認識を獲得することができるからである。


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