目的論的判断力の方法論 ついでに、いまSDGsとか言ってるピュアなアホが読むべき内容

 相変わらず弁証論は無味乾燥なのでとばします( ;∀;)

 目的論的は自然科学に属するのか? それとも神学に属すのか? 学としての目的論は、積極的な理論に属するのではなくて批判に属する、しかも特殊な認識能力即ち判断力の批判に属するのである。

131-212頁要約抜粋

 我々は前章でこういうことを述べておいた(126-127頁)我々は人間を、すべての有機的存在者と同じく自然目的と見なすばかりでなく、この地上の世界における自然の最終の目的と判定するに十分な(規定的判断力に対してではないにせよ、反省的判断力に対しては)理由をもっている、またかかる最終目的に関しては、自然における自余いっさいの物は理性の法則に従い目的の体系を成すものである、と。
 我々が自然の最終の目的なるものを人間のどこに置かねばならないかということを知ろうとするならば、まず究極目的たらんとする人間がみずから為さねばならぬことに対して予め彼の心構えを整えておくために自然が果たし得るところのものを探し出さねばならない。
 自然における彼の一切の目的は、結局その形式的、主観的条件だけになる。即ちー自分自身に対してみずから目的を設定し、彼の自由な目的一般を規定する格律に従い、自然を手段として使用する適性という条件である。このことこそ自然が、自然のそとにある究極目的に関して果たしえるところのものであり、それだからまたこれが取りも直さず自然の最終目的と見なされてよい。また理性的存在者が任意の目的一般を自由に設定し得るような適性を生み出すことが、即ち人間の心的開発なのである。それだからかかる心的開発だけが人間の最終目的たり得るし、また我々としてらこの最終目的を、人類に関する限り自然に帰する理由をもつものではない。

 究極目的とは、自分自身を可能ならしめる条件として、自分以外の目的を必要としないような目的のことである。
 世界の存在者のなかで、目的論的原因性を有する唯一の種類の存在者(存在者の原因性は目的に向けられていると同時に、彼が自分自身に対して目的を規定する場合に従わねばならないところの法則は無条件的なもの、従って自然的条件にはかかわりのないものとして表象されるにも拘らず、しかしそれ自体必然的なものと見なされる種の存在者)が人間である。しかしそれは可想的存在者〔フェノメノン〕と見なされると限りの人間にほかならない。そして我々はかかる唯一の自然的存在者においてのみ、超感性的能力〔自由〕のみならず原因性の法則をも、かかる存在者に特有な性質にかんがみて認識し得るのである。
 世界における物が、実在に関して合目的に従ってはたらくような最高の原因を必要とするならば、人間こそ創造の究極目的である。道徳性の主体としての人間においてのみ、目的に関する無条件的な立法が見出され得るし、かかる立法こそ人間を究極目的(全自然が目的論的にそれに従属しているような目的)たらしも得るのである。

 自己の存在の価値を自分自身に与え得るものは人間だけであり、この価値の本原は彼が行為するところのもの(いかなる原理に従い行為するか)にある。しかしその場合に人間は、自然の単なる一環としてではなく、彼の欲求能力の〔自由〕において行動するのである。換言すれば、ここに言うところの欲求能力の自由とは善意志にほかならない。人間の存在はこの善意志によってのみ絶対的価値をもち、また世界の存在は人間のかかる存在に関係して初めて究極目的をもち得るのである。
 人間は道徳的存在者としてのみ創造の究極目的たり得る。すると我々は、根源的存在者の原因性というこの極めて明確な原理にもとづいて、かかる存在者を自然に普遍的法則を与える立法的な知性的存在者としてのみならず、また道徳的な『目的の国』における立法的元首としても考えざるを得ないだろう。

 理性を有する存在者であれば、自分が道徳の指示に厳しく拘束されていることを認めなければならない、道徳法則は形式的なものであり、目的をいささかも考慮してすることなく、無条件に命令するものだからである。実践理性は、世界における理性的存在者に究極目的を指示する。その場合にかかる努力の結果がどのようなものであろうとも、それは問うところではない。およそ義務を履行することの本旨は、誠実な意志の形式であって、成功を約束する中間的原因ではないからである。
 たとえ彼自身は誠実であり温厚であり親切であるにしても、彼の周囲には欺瞞や強暴や嫉妬が横行しているかもしれない。それだからかかる善意の人は、彼が道徳的法則に従う場合に念願に置いていたところの目的を不可能事であるとして放棄せざるを得ないのか? 我々の自由に自然の原因性以外の手段としての原因性わ結びつけない限り、かかる目的の実践的必然性の概念は、たとえ我々がいかに力を費やそうとも、自然的可能という理論的概念と合致するものではないだろう。
 それだから道徳的法則に適うような究極目的を設定するためには、是非とも道徳的世界原因(世界創造者)を想定せざるを得ないのである、即ちそれはー神が存在する、ということである。かかることは実践的現地においては、換言すれば彼に道徳的に指定された究極目的の可能を理解するためには、少なくともそれ自体なんら矛盾する事柄ではない。

 究極目的という概念は、道徳的法則に従う実践理性に対してしか使用され得ないし、また創造の究極目的は、我々の純粋実践理性が実践的である限りにおいてのみ合致するような性質であり、我々はかかる推論が実践理性の概念に従う判断力(反省的判断力にのみ適用され、規定的判断力には適用されるものでない)ことを知るのである。
 それだから神の現実性は、我々の理性の実践的使用に対してのみ解明されたのであって、かかる創造者の存在に関して何か或ることが理論的に規定されたわけではない。
 理性は、さなくとも理性自身の立法によって我々に課されているところの目的を可能ならしめる理念を必要とする。そして理性が世界の単なる自然概念に従うのではかかる目的を達成することは不可能であるという事実から生じる障害は、この理念によって、反省的判断力に対しては十分に除去される(反省的判断力に対する単なる統整原理として)のであり、そこでこの理念は実践的実在性をもつことになるのである。

 我々が超感性的なものについてもつところの一切の理念に関して、理性をその実践的使用の条件だけに制限することは、神の理念に関する限り顕著な効用を伴うものである、かかる制限は、神学が誤って神智学(最高存在者に関する神人同形論的な考えかた)に堕落することを防止し、更にまた宗教が巫術(神以外の超感性的存在者と感応同交するという狂信的妄想)や、偶像礼拝(道徳的心意以外の手段によって最高存在者の思召しに適い得ると考える迷信的妄想)に陥いることを防止し、また理性的心理学は認識を拡張する学としての心霊学になる気遣いがなく、また他方では唯物論に堕しないという保証が与えられている。要するに理性的心理学は人間学にほかならない。ー換言すれば、生きている『我々の思惟する自己』に関する知識であり、また理論的認識としては飽くまで経験的なものの域に止まるわけである。

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