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仕事と自己価値の狭間で。エーリッヒ・フロム「悪について」から学んだ葛藤と再生の物語


闇に飲み込まれそうになった瞬間

・4X歳
・男性
・既婚(子なし)
・大卒
・会社員(一般社員)
・趣味:音楽活動、読書

これが私のプロフィール。「普通の40代男性」と言っていいだろう。
いわゆるロスジェネ世代・就職氷河期世代で何十社と落ちて、ようやく今の会社にギリギリ採用してもらえた。
今の会社には愛着があるし、仕事も嫌いではない。だから会社の業績を伸ばすために私なりに必死に頑張ってきた。成果もそれなりに上げて会社にとって必要な人材になったという自負はある。
30代まではそれで楽しく充実感もあったが、40代になった頃から「管理職になれなかった」という事実が私の頭をもたげるようになってきた。
私が持っている技能は会社にとって必要なものではあるが、ふとした時にこの事実が頭を過ぎる。その度に
「自分は会社の中核メンバーではない」
「自分がいなくなったらしばらく困るだろうけど致命的ではない。」
”その程度の存在だ”という事実を突きつけられているようで、仕事に取り組むモチベーションが徐々に低くなっていくのを感じる。
自分の心の中心から少しずつ黒い靄が広がり、自分自身を蝕んでいくようなドス黒い感覚だ。

この感覚に気付きながらも私はそれに向き合うことを避けてきた。向き合うどころか、こんな感覚が自分の中にあることを認めてしまったら、その瞬間に自分は誰からも必要とされていない「負け組の中年おじさん」であることを認定してしまうことになるんじゃないかという恐怖を感じていたからだ。
それを振り切ろうと一所懸命仕事に取り組もうとした。
けれども、一所懸命になればなるほど仕事は自分が理想とするほど発展せず、ますます理想とのギャップに苛まれることになった。

自分の中に潜むドス黒い気持ちに気づきながらも目を背けるような日々。
向き合わないといけないと分かっていながらも、その勇気を持てず逡巡していた日々。
そんな時に出会ったのがエーリッヒ・フロムという心理学者が1964年に著した「悪について」という書籍だ。

人はどのように悪に囚われるか。

正確に言うと購入したのは数年前だが、内容が難解で途中で断念してしまったものだ。
その本をなぜもう一度手に取ろうと思ったか?
それは浜崎洋介という文芸評論家がとある論評の中で触れた「悪について」の引用が、私が感じていた「自分の心の中心から少しずつ黒い靄が広がり、自分自身を蝕んでいくようなドス黒い感覚」にぴったりと整合するものだと感じたからだ。
少し長くなるがここで浜崎氏の文章を引用したい。おそらく人生の経験をそれなりに積んできた人にとってはピンと来るものがあるはずだ。

「不信の構造」や「腐敗の正体」を考えようとしたとき、私には必ず思い出すエピソードが一つある。たった一つの選択が、その後の人生にどのような自己不信をすことになるのか、どのように人を腐敗させるのか、エーリッヒ・フロムが「悪について」のなかで紹介する人生の物語である。

「この物語は、自分や他人の発達を見ていれば日常的に観察できるものを詩的に表現したにすぎない。一つの例を見てみよう。ある白人の八歳の男の子には友だちがいた。それは黒人のメイドの息子だった。男の子の母親は息子が黒人の子供と遊ぶことを好まず、その子と会うのをやめるよう命じる。子供はそれを拒絶する。すると母親は、言うことをきけばサーカスへ連れて行くと約束する。息子は折れた。この自分への裏切りと買収の受け入れは、この少年に何かしらの影響を与えた。彼は自分を恥じ、道義心は傷ついた。自分への頼もなくしてしまった。」(『悪について』渡会圭子訳、ちくま学芸文庫)

ここには、多かれ少なかれ誰もが一度は問われることになる「善」(能動性)と「悪」(受動性)のあいだにおける選択の問題が示されている。フロムは、この二者択一の問題を、一人の子供における”友人と会うこと”と“サーカスに行くこと”とのあいだの選択の問題として描いているが、それは、自分のなかにあるバイオフィリア的傾向(生命愛)を守るのか、それとも、ネクロフィリア的傾向(物質愛)に躓くのかという問題でもあった。

だが、「サーカス」を選んでしまった子供の場合、まだ「取返しのつかないことは起こっていない」。決定的な事件が起こるのは、それからさらに十年後のことだった。
成長した少年は、ある少女と恋に落ちることになるが、この時も少年を「悪」の方に誘惑したのは両親だった。少女の階級の低さを嫌った両親は、今度は「半年間のヨーロッパ旅行”で少年の気を引きつけ、結婚の意志が固いのなら婚約発表は旅行から帰って来てからでも遅くはないだろうと説得するのである。かくして、彼女に対する愛は変わらぬはずだと意識の上で考えた少年は、両親の言葉を受け入れ、その提案に従ってしまうのだった。
が、それが彼の命取りになった。旅先で多くの女性に会い、虚栄心を刺激され、そこで人気者になった彼は、帰国するに際して、婚約解消の手紙を書くことになるのである。
その後のことは、もう想像がつくだろう。両親からの「賄賂」を二度も受けとってしまった少年の心は、時間がたつに従って「物質」のように頑なになっていった。末梢神経の刺数に対して、生命の持続感を売ってしまった彼は、そんな自分自身への裏切り行為によって、「自己卑下と内部の弱さと自喪失」を招き寄せてしまうのである。
結局、彼は得意の物理学の研究を辞めて父親の仕事を継ぎ、両親の勧めに従って裕福な家の娘と結婚し、実業家としての成功を収めた後に政治家となる。が、もちろんそのときにはすでに、周囲に逆らってもなお貫き通す「良心」などというものは残っていなかった。こうして、「おのれ自身の歴史を空にした人間、過去という内臓を持たず、「国際的』と呼ばれるあらゆる規律に従う者たち」がー、要するに、譲れぬ内面というものを持たぬ「スノッブ(俗物)」が生み出されることになるのだ。

表現者クライテリオン 2024年5月号 浜崎洋介「戦後家族」の運命

私はこの文章を読んだ時にハッとした。ここで言われている
・周囲に逆らってもなお貫き通す「良心」が残っていない
・己自身の歴史を空にした人間、過去という内臓を持たない人間
・譲れぬ内面というものを持たぬ俗物
これこそが私の中に生まれ、私の心を侵食している闇の正体ではないかと。
そこで私は再びこの「悪について」を手に取ることになった。

「悪」とは何か?

エーリッヒ・フロムは20世紀に活躍した社会心理学者。ドイツのフランクフルトに生まれたユダヤ人だ。
鋭い人はこれでピンと来るだろうが、第二次世界大戦中にナチスドイツの迫害に遭いそうになりアメリカに亡命。その後、ナチスドイツのような全体主義が台頭することになった理由を社会心理学の見地から研究を行っている。
主著に「悪について」のほか「自由からの逃走」がある。

この「悪について」の中でフロムは様々な悪の形とその悪をもたらすものを分析しているが、その主張は次の一言に集約されている。
「悪とはヒューマニズムの重荷から逃れようとする悲劇的な試みのなかで、自分を失うことである。」(本書P208)

ちょっと分かりづらいので少し補足説明を。
まずヒューマニズムという言葉だが、これは世間一般で使われている「人間的な優しさ」というようなあまっちょろい意味とは違う。「人間は自らの意思や信念に基づいた行動を取ることができる。」という人間の主体性を重んじる態度ことを指している。

次にヒューマニズムの「重荷」とは人間の主体性に随伴する自分の行動が及ぼす影響への自覚と、その結果に対して求められる責任を取ること。
「ヒューマニズムの重荷から逃れようとする」というのは、その責任から逃れようとすることだ 。ちなみに「重荷から逃れようとする悲劇的な試み」と書いているように、フロムはこの責任逃れは成功せず必ずどこかで責任を取らされることになると考えている。

最後に「自分を失う」とは何だろう?
フロムは本書の中で、人間の本質とは何かについて深い考察を行っているのだが、優しさだと強さだとか単純な状態では説明ができないとしている。
そうではなく、人間の本質とは「自分の生き様を自ら選び取ろうとする積極的態度と、自分の生き様は生まれ育った環境によって定められた運命であり逃れようがないという消極的態度。これらの矛盾する態度が一人の人間の中に存在していることこそが人間の証であり、その間で必死に生きようともがくその有り様こそが人間の本質である」と言っている。

したがって「自分を失う」とはその自分の中に存在する矛盾と向き合おうとする態度あるいは意思を喪失してしまうことを意味している。
つまりフロムが考える「悪」とは「人間が本質的に抱える矛盾に立ち向かう意思を衰退させてしまうもの」のことなのだ。
※私なりの表現に言い換えていますのでご了承ください。

自分の中に芽生えた闇の正体

ここまで読んだ時、私は自分の中に芽生えつつあったドス黒い闇の正体に気づいた気がした。
私なりに会社という組織で力を尽くして来たが、それが誰からも認められていないんじゃないか。
自分は組織の中で必要とされていないんじゃないか。
自分はこのまま衰退していくしかないんじゃないか。
そういった自分の社会人人生への絶望や無力感に囚われていたのではないか。
さらに悪いことに、それらの感情に対し「自分なりに一所懸命やってきた結果なんだから仕方ない」という言わば諦めのような感情に立ち向かおうとする意思さえも失われそうになっていた。
まさにフロムがいう「自分の今までの選択や行動と、それが生んだ結果への責任から逃れ、自分自身の人生と立ち向かおうとする意思 (=人間の本質) を失う」=「悪」に飲み込まれようとしていたことに気づいたのだった。

私は今の会社が好きだし、仕事も好きだ。そんな仕事に出会えたことは誇りに思って良いと思う。
しかし、”だからこそ”いつの間にか仕事の尺度が自分の尺度になっていたのかもしれない。
いや、心のどこかでは気づいていたのだが、それを悪いことだとは思っていなかったと言った方が良いだろう。むしろ充実感さえ得ていたと言って良い。
だが、フロムの「悪について」を下地として改めて考え直すと、もしかしたら私は仕事を価値基準とすることで自分自身の価値観に照らし合わせて自分で考えることを放棄していたのではないかと思えてくる。
乱暴な言い方をすれば「会社のため、仕事のため」という言葉を大義名分にして全てをそれに注ぎ込むことで、自分自身の生き方と向き合うことから逃げていたのかもしれない。
つまり私はフロムの言う「悪」にとっくの昔に囚われていたのだ。
今まではそのことに気づかなかっただけ。
それが40代になり、会社の評価と自分の評価との乖離が目にみえるようになって、初めてそこにある悪の存在に気づいたのだ。
ドス黒い感情に囚われたのは誰のせいでもない。自分の責任だった。その事実をようやく目に突きつけられて慌てふためいている。そんな哀れな40代の
会社員が等身大の私だったのだ。

で、どうすんの?(まとめにかえて)

では具体的にこれからどうすれば良いのか?
正直皆目検討がつかない。
なるほど。自分が悪に囚われていることに気づいたことは素晴らしい。おそらく多くの人がそこまで気づかないはず、もしくは気づいたとしても認めたがらずそのまま衰退していくのだろう。
しかし、そのことに気づいたからと言って、いきなりここから人生の逆転劇が始まる訳ではない。もしかしたら会社に所属する組織人としてはこのまま衰退していくのかもしれない。
それを回避する妙案は正直思い浮かばない。

だが、一つだけ言えるとしたら「衰退したって何が悪い?」と開き直れる”厚かましさ”がこの歳になると身に付いていることだ。
もうここまで来たら今さら誰かの評価を得ようと必死になるのも面倒臭いし、必死になったところで簡単に社会の評価は得られない。それだったら40代の今だからこそ自分がやりたいようにやるというワガママを貫いても良いのではないだろうか。
率直に言って、40代になると病気やストレスでの衰えのせいで「誰かのために必死になる」というのは相当しんどい。その一方で、自分の人生の終着が少しずつ形を帯びてくる年代だからこそ、それを少しでも幸福なものにするために、「自分のために力を尽くす」貪欲さがにじみ出てくる。

それは唯我独尊になるという意味ではない。
40年以上生きてきた自分の人生の意味をもう一度捉え直し、自分がより良く生きるため (=「悪」に囚われないため) にできることを考えること。
そして、それを実行するために計画を立て、周りへの配慮を怠らず、強い信念をもって行動に移すことだ。

過去よりも今、そして未来。
それを幸福なものにするために、目の前の困難に果断に立ち向かう勇気を持つこと。その大切さを改めてこの「悪について」を読んだことで気付かされたのだった。

という訳で珍しく自分語りをしてしまいました。
何だかうまくまとまっておりませんが(笑)、長文を最後までお読みいただきありがとうございました(^人^)

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