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ダンジョンバァバ:第14話(前編)

目次

カナラ=ロー大陸南西部、セイヘン。荒涼とした不毛地に関心を寄せる者はおらず、いずれの王国領にも組み入れられぬまま歴史から忘れ去られていたノーマンズランド。
ある放浪者がこの地でダンジョンを発見したのは、2年と少し前のこと。地底へと続く石段を封じ隠していた、無人の修道院。それを囲むように遺棄されていた廃村―― 数世紀前のものと推定される名無しの集落は、ハンターたちの間でドゥナイ・デン(=儲けの地)と呼ばれるようになっていた。

――というのは、表向きの話である。

第14話『ドゥナイ・デンにて』(前編)


ヘップたちがタリューへと旅立った日の夜。
ドゥナイ・デンの酒場『ニューワールド』。
”意図的に流布された” ダンジョン発見の報が大陸中を駆け巡り、ハンターや商売人が殺到したのはもう過去の話。あまたのハンターが命を落とし、あるいは故郷へ帰った今―― 集落そのものが死にかけていた。
しかし今宵は。
生残するハンター総勢32名が一斉に押しかけ、久方ぶりの賑わいを見せていた。バァバの招集に応じた彼ら、彼女らは、例外なくダンジョンの持つ ”何か” に取り憑かれた酔狂者であり、死と隣り合わせの魔窟に幾度もアタックしてきた強者でもある。

バァバが姿をあらわすと、喧騒に包まれていた店内は水を打ったように静まり返った。ひょいと木箱に登壇した彼女が真実の一部をかいつまんで説明しているあいだ、トンボの料理に手をつける者はおらず、ジャンが注いだエールは各々のコップで静かに揺れていた。

「――ハイ、以上。あとは好きに飲んで食って解散しとくれ」

バァバは素っ気なく締め括り、目を細めながらハンターの顔を見渡した。
まるでどこか別世界の物語…… ダンジョンにまつわる秘密を知らされ、顔を歪める者。ひたすら小さく唸る者。爪を噛む者。肺の中の空気をすべてしぼり出すように溜息をつく者。横目で周りの顔色を窺う者…… 反応はさまざまだが、言葉を失うという点だけは一致していた。

「……で? その厄災って親玉を、バァバたちがブチのめす、と」
口火を切ったのは、古参ハンターのドワーフレンジャー、アイーレだった。衆目がふたたびバァバに集まる。彼女はおもむろに煙草パイプを取り出し…… 一服。
「ソ」
「……で? ワシらは? おのれらの故郷に帰れ、ってか?」
「ソ。たとえ帰る場所が無くとも帰ったほうがいい。死にたくなけりゃね」
「テルル山の名射手であるアイーレ様が、ここに集まった連中が…… 死を恐れていると?」
「ソ。……恐れ知らずはただのバカ。アンタらは? バカじゃないから今も生きている。己の力を過信せず、己が信じた奴らと関係を築き、力と技と知恵を駆使してバケモノの巣窟に潜り、これまで一度も引き際を見誤ることがなかった。……だけどね。今回は違う。アンタらが培ってきたそういうモノゴトが通用しない。何が起きても不思議じゃないんだよ。地下も地上もね」

「ここらは誰が守るんだ? おっぱじまったら魔物が這い出てくるんだろ?」
アイーレとは別グループのリーダーが言った。
「盟約により、モリブ山のドワーフ族が主力になる。それと一部の人間族」
「モリブぅ?」
アイーレは太い眉を吊り上げ、バァバに詰め寄った。
「テルルは! テルル山のドワーフはどうした」
「行ったさ。むかーしエルフの賢者が頭を下げにね。だがテルルの―― お前さんトコの王は門前払いさ」
「な……」
「クク…。王と、ほんの一握りの側近しか知らないんだろうねぇ。テルルらしいと思わないかい? 閉鎖的で山に篭りっぱなし。なんでもかんでも秘密にしたがる」
「ムゥ、そりゃ、ムゥ……」
アイーレは口の中でもごもご言って、エールを喉に流し込んだ。テルル山を飛び出すドワーフたちの不満は、まさにその孤立主義にあった。

店の隅では、別の一団がひそひそと話している。
「ねぇ、あんたの里はモリブでしょ? 知ってたの?」
「いんや。おれが生まれる前の話だ」
「にしたって。あんたがここに来ようってときにさ、お父さんやお母さんは何も言わなかったの?」
「生きて戻れ、とは言われたけんどなぁ」
シーフ装備に身を包んだドワーフは頭をボリボリと掻き、記憶を辿るように視線を宙に向ける。詮索好きのハーフエルフメイジは、不満そうに口を尖らせた。
「それだけ?」
「モリブの親心ってのはそういうもんだ。子が決めたことに煩く言わん。それになぁ…… 50年、いや52年前か? そんころは細工師の親父も、研磨師のお袋も、まだ80そこいらの未熟者だ。戦争には参加しとらんかったろうな」
「80歳で未熟者?」
「んだ。ドワーフってのはな、身体こそおれくらいの年齢で出来上がる。だけんど90、いや100を過ぎるまでは半人前よ。おれんとこの親はどっちも肉親を早くに亡くしてたから。ふたりが一緒になるのも早かった」
「へぇ……。でもでも、何も知らないってことは無いんじゃない? 大勢が出兵したんだから」
ハーフエルフが食い下がると、ドワーフはまた頭をボリボリと掻く。
「知っとるんかもなあ。だがおれは聞かされとらん」
「他のドワーフはどうかしら」
「さあ。周りから知らされて、ここに来ることを諦めたやつもおろう。知ったうえで来て死んだやつも、知らずに来て死んだやつもおるだろうよ。だがいちいちそんなこと、おれたちは言い合わん」
若きドワーフは少しだけうんざりした表情を浮かべながら、ぶっきらぼうに言った。
「うーん……」
「だけんど、おれ、バァバの話を聞いて合点がいったんよ」
「なにが?」
「おれは2年近くここにおるが、妙にモリブのドワーフが――」
ふたりの会話は、別グループから飛んだ声によって中断された。

「人間が参戦するってのは本当か? どこの国だ」
人間族のサムライが、うたぐるような目で言った。
「ヒヒ…アンタは確か、メンデレーの出身だったね」
「そうだ。こう言っちゃなんだが、いったいどこの国が派兵に応じるってんだ。三大国は自国…… いや、一部の人間のことしか考えん。他にまともな――」
「ダームだよ」
バァバがもうもうと煙を吐きながら答えると、サムライの隻眼が飛び出しそうなほどに見開かれた。
「ダーム? ダームって、あのダームか?」
「ソ」
「サイオニック集団が……」
あちこちからどよめきが起こり、ベールに包まれたダーム王国の噂話が飛び交う。
「それにナント! 聞いて驚くんじゃないよ……」
バァバがもったいぶって言葉を切ると、店内がしんと静まり返った。
「……プラチナム王国もね。…ヒヒ」
一転、店内が爆発的に騒がしくなった。プラチナムは三大国のひとつであり、兵力だけなら大陸一。三大国のなかでここセイヘンに最も近いのも、プラチナムだ。だが―― 兵を割き、国防にわずかでも穴を開けたら? その北に位置する大国メンデレーが、東北東に位置する大国ストロームが、いつ仮初めの休戦協定を破棄するかわかったものではない。戦場稼ぎが生業のハンターたちは動乱の予兆に色めき立ち、さっそくグループ内で身の振り方の議論がはじまっていた。
「ま、大国の兵士は役立たずの集まりだからね。労働力としか考えてないよ…ヒヒ。他には石の国イムルック、それに隠れ里のニンジャ集団も――」
バァバの呟きに耳を傾ける者はいない。

――ように思えた。
店の入り口付近。4人掛けのテーブルにひとり座る青年が酒も飲まず、薄青い瞳でじっとバァバを見つめていた。耳元あたりで真っ直ぐに切りそろえられた金色の髪。美少年とも美少女ともいえそうな顔には、まだ幼さが残っている。だがまっすぐな姿勢と、真一文字に引きしめられた唇からは、大人びた品格と意志の強さが窺えた。
青年がゆっくりと立ち上がった。
質素なチュニックと革ズボンという平服姿が、ハンター集団のなかでは逆に浮いて見える。唯一、腰に佩いた黒鞘の剣だけが、戦士であることを主張していた。

「ひとつ宜しいでしょうか」

凛と張りつめた青年の美声につられ、ハンターたちが一斉に振り向く。アイーレが「あっ」と声を上げ、仲間に囁きかけた。
「おい、あれ、昨日今日と宿屋にいた小僧だよな」
仲間のひとりが無言で頷いた。
「はいドーゾ」
バァバが促す。青年は胸を張って口を開いた。
「こたびの戦に、私と、私の部下も加えていただきたいのですが」
一瞬の間。
ドッと笑いが起きた。
「ニーチャンやめときな!」「ガキのお稽古じゃねーんだ」「部下ってなんだよ? ハナタレ孤児の集団かぁ?」「死体漁りはよそでやれ」
青年は野次に怯む様子もなく、毅然とした態度で答えを待っている。
「クク…クク。クク。こりゃ面白い。……父王の許しは?」
バァバの問いに、青年は目を見張った。
「私をご存知でしたか。王の許可は必要ありません。私は王位継承権第6位を放棄する代わりに、私設部隊の創設と運用を一任されていますので。たとえ野垂れ死のうと自己責任」
「ヒヒ…。そうかい。黒騎士隊…… 噂には聞いてるよ。ルシアス王子」
どよめき。
「ただルシアス、と」
「遠征中って話は? ルシアス」
「目的を果たし、今はここに」
「へぇ。船旅お疲れさん。で、数は?」
「騎兵一個小隊と聖職者5名、総員36名。東の丘向こうに待機させています」
「馬頼みの武者はここじゃ役に立たんぞ」
トンボが初めて口を挟んだ。
「ご心配なく。我々は二本足で戦う経験も多く積んでいます」
「……ならいい」
トンボはバァバに目配せし、店仕事に戻った。
「村の西の廃墟区画を使う許可をいただければ、すぐにでも隊を動かしますが」
「ハイよろしく。場所取りは早い者勝ちだからね。必要な物があれば言っとくれ。食事は1日2回。食堂はこれから建築予定。おたくの国の兵士がね」
「お構いなく。道具も食糧も持参しています。少し馬を走らせれば川魚や猪、うさぎ、鳥、木の実や虫も獲れるようですし」
「ダメダメ。遠慮はダメ。長丁場を覚悟しとくれ」
「では、お言葉に甘えて。困ったら相談させてください」
ルシアスは愛嬌のある微笑みを口元に湛え、お辞儀してから踵を返す。
「失礼します」
棒立ちのハンターたちに向けて言うと、堂々たる歩調で店を出ていった。気丈で礼儀正しく、不思議と嫌味のひとつも感じさせない青年が姿を消したとたん、店内はふたたびザワつきはじめる。

バァバがパン、と手を叩いた。

「ハイハイ。見世物はおしまいだよ。アンタたちはできるだけ早く集落を出るように。アー、それとね。金に換えたい物があれば店へ。バァバ出血大サービスしちゃうから。貯まったボルの交換もお忘れなく…ヒヒ」

ハンターたちは顔を見合わせてから、ひとり、またひとりと声を上げた。
「ここを出ろったって、オレにはなんもありゃしねぇ」
「そうそう。おらはどうせ故郷じゃもう札つきだ。ここでプラチナムやダームに恩を着せておきゃあ……」
「あんなに若くてかわいい男の子が戦うのよ? 守ってあげなきゃ」
「この必中のアイーレ様が! 魔物にケツを向けて逃げると思うか?」
「そうだ! 舐めんじゃねぇ」
「大国同士の戦争も金にはなるが…… こっちの方が面白そうだ。なあそうだろお前ら!?」
次々と意志が表明され、自己陶酔にも似た熱狂が店内に充満してゆく。
熱気にあてられ目をきらきらさせるジャンの頭に、トンボの大きな手が置かれた。
「ジャンよ。魔物はとても恐ろしく、強い。いくつもの死が待っているだろう。お前はテレコやニッチョの言いつけをよく守るのだぞ」

◇◇◇

翌朝。
ドゥナイ・デンに続く街道に沿って、白地に金でクラウンを縫い取った国旗がいくつもはためいていた。煌びやかな装備に身を包んだ歩兵と騎兵およそ300名が護っているのは、大勢の土工。数十名の医療関係者。他、労働のために搔き集められた男たち。そして何台もの荷馬車。プラチナム王国の支援団、その第一陣である。
村の玄関で待ち構えていた宿屋のテレコが、数名の隊長に向けてテキパキと指示を出している。
「あっちの高い壁。ほれ、あれ。見える? ぐるっと続いていて安全だからね。あの中にぜんぶ建てるんだよ。医療所、休憩所、調理場、食堂、工房、保管庫。だいたいの図面はこれね。調理はあたしたちハーフリングが、他は主にドワーフが使うんだからサイズを意識して。導線もちゃんと考えてね! はい次。いちばん戦の経験があるのは誰? 攻城戦や籠城戦」
「わたしだ」
とびきり豪奢な鎧の巨漢が、不満そうにハーフリングを見下ろす。
「えーと、アーバス司令官だっけ? あんたは壁の外周に防御柵。それと内周には上から矢を射るための櫓を建てとくれ。あんたたちが守る場所だからね。死にたくなきゃ気合入れてこしらえるんだよ。そこのあんたは厩舎。宿屋の前のは足りないから村の外に新設。馬が食い殺されないようにしっかり囲っとくれ。あんたらの寝床は南東区画。更地にして好きに使っていいから。ハイわかった!?」
テレコがキッと見上げると、ふてくされていた隊長たちは思わず頷いてしまう。
「あ、それとね、村の中央に修道院がある。そこがダンジョンの入り口。最前線。下手に近づかないように。修道院の向こうの北西区画も先約ありだから邪魔しないように。分からないことがあれば遠慮なく聞いとくれ。勝手にやられて二度手間はごめんだからね。以上! ホラ急いで! 時間が無いよ!」

◇◇◇

同日の夜。
月隠れの夜闇と同化するほどに黒い鎧、黒いフルヘルム、黒いマントを身に着けた一団が、修道院の周辺を静かに歩き回っていた。各自の胸甲に埋め込まれた拳大の魔石だけが、闇の中でそれぞれ別個の色光を放っている。その数、36。
「随分とやりづらい場所ですな、隊長」
老年の戦士が感想を述べると、ルシアスは深く頷いた。ルシアスだけが面具を跳ね上げ、若々しい顔を闇にさらしている。
「ええ。囲んで戦い続けるにはそれなりの人数が必要です。私たちは三交代制、状況に応じて二交代制もしくは総員でかかる覚悟を」
「隊長、この修道院は邪魔だからぶっ壊しちまおうぜ」生意気そうな声が暗闇に響く。
「提案しておきます」
「んんむ。一点が突破されたら全体が瓦解しかねん」と、大柄な男。
「馬は役に立たないと言われましたが、包囲網の応急処置や追撃に機動力は必要ですね。10騎ほど用意しましょう」
「ドワーフは本当に来るの?」今度は子供のような声。
「信じましょう。彼らが壁になってくれれば心強い」
「来なきゃおしまいよね。ねえ、ここの魔物は飛ばないのかしら」細いシルエット。女の声。
「想定しておくべきです。我々は近接戦闘に集中しますが――」
そこでルシアスは口を閉ざした。松明の灯りが近づいて来る。
「ルシアス殿! お久しぶりです」
プラチナム王国兵4名を引き連れ、支援団の司令が敬礼した。ルシアスも再会を懐かしむように微笑み返す。
「アーバス。あなたが来ていたとは」
「はっはっは! 貧乏くじを引かされましてね。上に疎まれているのでしょう」
アーバスは大きな身体を揺すり、豪快に笑った。ルシアスの顔が微かに曇る。
「貧乏くじ、ですか」
「そりゃもちろん! 辺境の魔物だのなんだのと、放っておけばよいのです。わたしは常に国民の安全を一番に考える男ですから! ……しかしルシアス殿、こんな村で貴殿の名を耳にして驚きましたぞ」
ルシアスは一瞬だけ目を伏せてから、真剣な面持ちでアーバスを見つめる。
「……アーバス。聞かされていませんか? かの大戦において先王が、トライ・ロー評議会が、結託して不参戦を表明した事実を」
「は? かの大戦? いえ、何のことやら」
「いいですかアーバス、よく聞いてください。これはとても大切な話です。はるか昔、この大陸の中央部…… 光あふれる沃野をほぼ独占した人間族の王たちは、地図の上に適当な線を引き、互いの領土を奪い合ってきました。……あなたは私と同じくらい読書が好きだった。歴史はよく知っていますね?」
「は、はあ。そして国同士が争う乱世の後…… あちこちで休戦協定が結ばれ、交通網がひらかれました。諸国間の交易も行われるようになりました。そうして人間族が努力してきたからこそ、今の平和が――」
「ええ。ですが、それもすべては人間族のため。カナラ=ローは人間族のもの。自国のもの。自分のもの。その思い上がりは三大国の王族に顕著です。そうして恵みを享受しておきながら、彼らは責任を放棄したのです。それがおよそ50年前。評議会は、大陸の存亡が危ぶまれる脅威を知らされながら保身に走り、他種族にすべてを押し付けました。信じられないほど多くの犠牲が出たと聞いています」
「そんな」
アーバスは咀嚼しきれず、魚のように口をぱくぱくと開いた。ルシアス以下黒騎士隊が、じっとその様子を見つめている。
「……アーバス。私も恥ずかしながら知りませんでした。ですが、事実を知った私と私の部下は、あなたの言う貧乏くじを望んで引きに来たのです。私たちと同じように事実を知ったあなたは、どうしますか?」
「隊長、そろそろメシにしましょう」
黒騎士のひとりが言った。
「あ、ええ。……少し熱くなりすぎました。ではまた」
ルシアスはバツが悪そうに言って、仲間とともに闇の中へと消えていった。

◇◇◇

プラチナム王国から来た支援団は、到着の翌朝から本腰を入れて作業に取り掛かっていた。訓練場跡をはじめ、村の東側では大勢の人間が行き交い、昼時だというのに交代制で仕事に励む者も少なくない。
「ハイこれ。お守りだよ。ハイそこのアンタも、お守りをドーゾ…ヒヒ」
武具屋の前で、バァバがコインを配っていた。思わずすれ違いざまに受け取った土工は、歩きながら手のひらを確認する。1枚のコイン。イェン硬貨に似たサイズだが、質感が明らかに違う。片面には『1』と数字が刻まれ、反対の面には『B』の文字。土工は特に深く考えることもなくボルをポケットに収め、昼食のパンを齧るころにはその存在を忘れてしまった。
「ハイ、お守りだよ。ハイドーゾ、おまも――」
バァバの動きがピタリと止まった。
慌ただしく動き回る人々のなかで、彼女の時間だけが進むことをやめたようだった。指先ひとつ、髪の毛一本も動く気配がない。
「おい婆さん、大丈夫か?」
通りすがりの兵士が立ち止まり、フードに覆われた老婆の顔を覗き込む。
「ヒッ」
兵士は腰を抜かし、尻餅をついた。バァバの左眼―― 琥珀色に光る眼球が飛び出しそうなほどせり出し、その中央にあるはずの黒い瞳が異常な速さで四方八方へと動いていた。よく聞けば何かをぶつぶつと呟いているが、いったいどこの国の方言なのか、兵士には見当もつかなかった。
「バ、バ、ババケ、バケモ……」
歯を鳴らし助けを求めようとした兵士は、ぎょろりと睨み下ろされ気絶した。

バァバは目を強く閉じ、ゆっくりと開き―― 空を見上げる。

「バグラン。お前が死んでどうする」

掠れた声を絞り出し、薄汚れた灰色のローブを引きずりながら診療所へと歩いてゆく。

後編に続く

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