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杉本博司 本歌取り 東下り:4 /渋谷区立松濤美術館

承前

 天平古材の敷板に、石器のやじりが並んでいる。いろ・かたち、さまざまだ。

 左半分は、中央サハラ砂漠で出土した新石器時代、右半分は日本の縄文のものという。ともに、9000〜5000年前に製作。スパンが長いとはいえ同時代に、まったく異なる場所で、これほど類似した道具が生み出されていた……そこに、大きな驚きがある。
 専門家が仔細にみていけば、いくつもの違いや特徴、地域性が見出されるのであろう。そうでもなければやはり、そっくりというほかないし、左右の数片を入れ替えたとて、はたして気づけるか自信はない。
 考古学では近年、古代人もまた、現代でいう「美意識」をもって器物をこしらえていたのではといわれている。
 こうして石器を観ていると「機能性や合理性の追求だけで、はたしてここまでたどり着けるだろうか」と、たしかに思えてくる。色の違いなども、ひょっとしたら、製作者・使用者の好みや感性に起因するのかもしれない。民藝の思想とは相反するが、そういった読みの余地は充分にありそうだ。

 石器の同時多発性は、場所や人種を超えて人類に通底するなにかを予期させる。
 普遍性という意味では、物理法則や数学といったものはより厳然と存在し、あらゆる面でわれわれの前提となっている。
 難解な三次関数の数式を立体に起こした《数理模型  025 クエン曲面:負の定曲率曲面》(2023年  作家蔵)。

  『博士の愛した数式』のベストセラーを機に、「数学は美しいのだ」ということが世にあまねく知れわたった。
 元来数字に弱く、小説にも映画にも触れていない一介の美術好きとしては、こうして造形化してもらってはじめて、その美の一端に触れられた感が強い。
 数式のあれこれは相変わらず理解の範疇を超えているけれど、数理模型を観れば、巧まずして生まれたかたちに、感嘆が止まらない。数学は、かくも美しい。

 なお、杉本さんの数理模型はパブリックアートとして、都内のいくつかの場所で観ることができる。大手町のこちらが、いちばんアクセスがよいだろうか。

《SUNDIAL》(2018年)。高さ12メートルに達し、日時計の役割も兼ねる


 本展を象徴する、最も直球の「本歌取り」作品が《カリフォルニア・コンドル》(1994年  作家蔵)。最後の展示室で、待ち受けていた。

 本歌としたのは、伝・牧谿《松樹叭々鳥図》(室町時代・15~16世紀  藤田美術館)。姫路展では下の写真のように、並べて展示されていたとのこと。東京展では、本歌の出品じたいがなかった。

  (伝)牧谿が観たかった思いはもちろんあるけれど、本歌と本歌取りとを横並びにしなかったのは、むしろ正解だったのかなと思う。
 そういえば新作《富士山図屏風》のかたわらにも、本歌である北斎《凱風快晴》はなかった。写真のパネルすら。

 本歌と本歌取り。ふたつの作品が並べば、きっと見比べたくなる。優劣や好悪を判断したくなる。というか、無意識のうちにジャッジしてしまうだろう。
 比較をはじめると、作品観察はともすれば、単調で作業的なものに陥ってしまう。もし本歌に肩入れすれば逆転現象が起きて、いったいなにを観に来たのかわからなくなる。こういった点が、多少なりとも考慮されたのかもしれない。
 本歌の参照は、キャプション内で説明される言葉や、脳内にうっすら持っている既存のイメージ程度で、まずはいい。本当に大切なものは、目の前の作品のなかにこそある。だから、まっすぐに対峙する姿勢を忘れてはならない。
 そういう意味で、「本歌取り」展に本歌がなくて、よかったなと思うのだ。


GWの江之浦測候所。
あちこちで、レモンの実がなっていた



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