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杉本博司 本歌取り 東下り:3 /渋谷区立松濤美術館

承前

 国家や人種を超えて、人類が共通して持っている基層の記憶、原始の姿に、杉本さんは思いを寄せてきた。
 代名詞となっている《海景》(1980年  小田原文化財団)。

 この海は、小田原・江之浦の海。周辺は太平洋に面して漁港が連なり、漁船や船舶がさかんに行き交う。1月1日、海と空だけになる日を狙って撮影された。
 《海景》シリーズでは同様に、陸も島も船も人も、写りこみが徹底して避けられている。
 海と空は、太古の昔からなんら変わらない風景だ。土地土地での差異も生まれにくい。
 江之浦測候所のギャラリーには、100メートルの直線の壁に、さまざまな国や地域で撮られた《海景》シリーズが掛けられている。それぞれがどこの海であるかは、タイトルによって知るほかない。それくらい、同じような風景が続く。
 ギャラリーを歩いていると、領土や国境なんぞ、ばかばかしく思えてくる。

 《海景》シリーズは、ほかの作品にも応用されている。《時間の矢》(1987年  小田原文化財団)は、《火焔宝珠形舎利容器》(鎌倉時代・13〜14世紀)と海景の写真を組み合わせた作品。

 仏舎利を納める核の部分は失われ、代わって、アクセサリーのロケットのように海景の写真が嵌められている。仏法は、はるかかなたの異国から、海を越えてやってきた。その道筋に思いを馳せる。
 もちろん、エッジの立ったすばらしい彫りも、本作の魅力をなす大きな部分。鎌倉の金工は武士の時代の息吹を反映してか、このように力強く、均整のとれた造形をみせる。
 一級品の古美術とがっぷり四つに組んでみせた「本歌取り」の佳品といえよう。

 杉本作品には、残欠として伝わってきた古美術品に、違った要素を接ぎ木してイメージの大転換をはかる例が、しばしばみられる。
 姫路展の出品作《国東五輪塔 銘「笠がない」》は、鎌倉期の五輪塔の欠失した笠を、ガラスで補作。「傘がない」ならぬ「笠がない」である。

 オリジナルはたまらないほどの逸品であり、それだけに、笠を欠くのが惜しくて惜しくて、これまた、たまらない。杉本さんにもそんな思いが強かったはずだが、だからといって、まさかガラスで笠を新調しようとは。いやはや、この発想には脱帽(「笠がない」だけに)。
 石塔は多くの場合、野外に置かれている。雨に打たれて石が濡れ、梵字の深い溝にわずかな水溜まりができ、ガラスの笠を雨水がつたって流れていったら……なんと美しいことだろうか。
 もっと我儘をいえば、苔むした姿もみてみたい。青みを帯びたガラスの色合いは、あるいは、そのあたりの効果を見越しているのかもしれないと思った。

 ——つい長くなってしまったが、欠損や風化、劣化といったものをネガティブに捉えず、新たなピースをはめるための恵まれた余白として積極的に受け入れようとする姿勢が、杉本作品には随所にみられる。
 その最たるものが《神の見えざる手》のシリーズだ。

 これはもともと《海景》だった。
 いや、いまも依然として《海景》ではあるのだが……ご覧のありさま。
 脆弱なプリントを額装のままあえて野外にさらし、なすがままにまかせたら、いったいどんな変化が生じるか。30年以上にわたって、現在も続いている試みである。
 額装のガラスに入ったヒビや割れ目から雨風や外気、直射日光が侵入し、著しく劣化している。年月の積み重ねが、このような質感を生み出した。そしてこれから、どのような質感をみせていくかは未知数。作者であっても、知るよしもない。「神の見えざる手」のタイトルどおり、自然や時間との合作といってよいだろう。
 上の作などはまだ原形が残っているほうで、水平線すら見当たらない作や、カビが生え放題の作もあった。

 しかし、これがまあ、美しい。
  「滅びの美」といったものとも、ちょっと違う。
 むしろ、変化していくことへの楽しみや期待を、本作は孕んでいると思う。永遠に、かりそめの姿。常に少しずつ、長いスパンでみれば劇的に変化していく、人知を超えた存在。
 最後は朽ち果て、土に還る。そうなってこそ、この作品は完結するといえるのかもしれない。(つづく

「古代ローマ円形劇場写し観客席」から望む「光学硝子舞台」と、江之浦の海。小雨がぱらつきはじめた、ある夏の夕刻



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