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没後190年 木米:4 /サントリー美術館

承前

 木米が絵画でみせた融通無碍な振る舞いは、気負いのない余技のジャンルであるからこその境地ともいえよう。
 この自在さは、やきものにも通じるところがもちろんある。
 だが、陶工としてのきわめて高水準な専門性と同時に、生業としてのこだわりが遺憾なく発揮されることで、木米のやきものは、絵画作品にない複雑な様相を呈しているように思われる。
 ただただ「自在」に筆を動かした絵画作品と、「自在+専門技術+こだわり」の凝縮された陶磁作品。
 以前述べた「陶と画の結びつきがたさ」は、このあたりの性格の違いにまず起因しているのではないか……図録を見返して所感を綴っていくうちに、そのように思えてきた。

 無二の親友であった田能村竹田が、興味深い一節を書き残している。

木米の話は諧謔を交え、笑ったかと思えば諭す、真実かと思えば嘘というように、奥底が計り知れない

『竹田荘師友画録』より(本展図録278p)

 竹田によるこの人物評は、わたしが木米のやきものから受け取っていた感覚と、ふしぎなくらいによく似ていたのだった。

 ここに、1匹の「蟹」がいる。

 置き物ではなく実用の道具——香合であり、蟹の胴部が身と蓋になっている。甲羅をパカっと開けると、芳しい香りの蟹味噌……もとい香木の欠片が入っている、という寸法。
 これだけでもおもしろい造形といえるが、さらに仕掛けがある。
 目玉が、飛び出すのだ。蓋が傾くと、仕込まれた細長い眼球が、こちら側に伸びてくる。とんだ悪戯心である。

 箱には自筆で「蠏眼射人(蟹の目が人を射る)」とある。
 なんとも意味深な四字。皮肉や教訓めいたものを、背後にどうしても感じてしまう。単なる悪戯や茶目っ気では、片付けられそうにない。
 リンク先の記事では、中国における蟹というモチーフの「出世」にまつわる吉祥性から、木米のメッセージを推論している。
 わたしは「森を見て木を見ず」「油断大敵」といった戒めかなと思った。
 蟹のリアルな造形に目を奪われるあまりに目の造作に気づかず、蓋を持ち上げたとたん、びっくり仰天。蟹と一緒にその人の目玉も飛び出たであろうし、思わず蓋を落としてしまう人もあったろう(そう考えると、この作品はよく完存して伝世されたものだと思う)。
 全体と細部で2度も驚かせる、二段構えの仕掛け。このような発想ができ、またそれを高度に実現することもできる木米という人こそ、まさに「油断大敵」だ。

 繰り返しになるが、ここで今一度、同じ箇所を掲出したい。

木米の話は諧謔を交え、笑ったかと思えば諭す、真実かと思えば嘘というように、奥底が計り知れない

『竹田荘師友画録』より(本展図録278p)

 《飴釉蟹香合》からはこの一節が最もよくうなづかれるが、他の陶磁作品においても、やはり通じるものが多いと思われる。竹田の人物評は、陶工・木米の作家性にも符合する重要な証言といえるだろう。
 絵画作品には、陶工という立場を離れ、ある程度自由に描いた側面が強いからか、上記のような「アク」が感じられるものはそう多くない。
 出品された絵画作品中の数少ない例外が、やきものづくりのようすを描いたもの。

 「巨大な急須作り」なのか、工人たちが小人(こびと)なのか……どちらにせよ、たのしく陶法が学べそうであり、そして生業のやきもの絡みの絵ということもあってか、「アク」は強い。

 こういった作品は措くとして、木米の山水などを描いた絵画作品には、彼の飾らない率直な側面がよく現れているといえるのかもしれない。
 それが、彼の真実の姿かどうかはわからない。ここでもまた、「二段構え」なのかどうかも。
 しかし、もとより人とは多面的なものであって、ひとつないしいくつかの型に嵌めて考えようとすることじたいが、おこがましいのだろう。(つづく



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