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没後50年 鏑木清方展:8 /東京国立近代美術館

承前

画帖『築地川』:下

 「『築地川』なんて川、あったかしら?」
 東京の街に日頃馴れ親しんでいても、そのような反応をする人のほうが多数派ではなかろうか。
 築地川は一部を残して干拓され、跡には首都高が通っている。
 歌舞伎座の前から築地へ抜ける途中に首都高を跨ぐが、この橋の下を、かつては川が流れていたのだ。「築地川」の名前は、周辺の公園の名称としてかろうじて残っている程度。乗用車やトラックがビュンビュン飛ばす直線道路に、船頭がゆったりと木舟を漕いでいた面影はつゆもない。
 この築地川の沿岸で過ごした少年時代のことを、清方はたびたび文章に綴っている。それらの文とともに絵を楽しみ、さらに現地に赴くことすら容易にできてしまう喜びは大きいけれど、往時との違いには唖然とさせられて、いつまでたっても馴れることがない。
 なにもかもが変化していれば、そんなふうに感じることもかえってなかったのかもしれないが……「溝」という地形には変化がないだけに、余計に残酷に思えるのである。

 築地川の水が澄んで、柳が青々と茂ったこの流域一帯は、いつでも清新な異国情緒が、あじさいの花の咲き誇ったようなかがやかしさを見せていた。
 容赦なく時は移る。昭和三十六、七年にわたって、この川の川床は、スッカリ浚(さら)い、埋められて、高速度で奔(はし)る交通の路線と化した

鏑木清方「失われた築地川」(昭和37年)

 前回に引き続いてまたまた個人的な話となり恐縮だが、この旧築地川の周辺をしばしば通りがかる。そのたびに、清方の画帖『築地川』を媒介として、この長い溝に水が満々とたたえられていた頃に想いを馳せるのである。
 画帖『築地川』には、下町の庶民の暮らしぶりや、外国人居留地や芝居小屋といったこの土地らしいひとコマが、詩情豊かに描きとめられている。
 画帖の全体像は、次のようなもの。

1「明石町」:西洋人の子どもが遊ぶ、外国人居留地の日常
2「伊達様の水門」:水辺の木陰で涼む人々
3「亀井はし」:欄干にもたれる浴衣の女性ふたり
4「鉄砲州」:堀のたもとで将棋を指す人、赤子をあやす人
5「組立灯籠」:芝居の一場面をジオラマであらわした夏の風物詩
6「獺(かわうそ)化ける」:カワウソが船頭に化けて出現
7「佃」:鰯を売り歩く佃島の子どもたち
8「紫陽花の垣」:紫陽花に薔薇の生垣が多かった
9「築地橋」:芝居小屋の幟(のぼり)はためく川べり
10「作者」:のちの清方こと健一少年が、庭の葡萄棚を見上げる

 あっさりとした淡彩の筆致は、遠い昔の記憶ながらいまもなお鮮明であるというところと、霧に包まれたように霞んだおぼろげさを同時に感じさせて、味わいが深い。

 地図や地誌といったものは克明かつ網羅的に、そしてドライに、土地のもつ歴史を教えてくれる。
 翻って清方の『築地川』は、断片的な場面を独立した形式で描いた10図からなり、ごく個人的な思い出・思い入れにもとづいたウェットな性格のものだ。
 すでに失われた土地のリアリティを描くには、前者のみでは足りないのではと思っている。後者のような性格の情報を集め、蓄積することで、みえてくるものがあるはずだ。民俗学の視点がまさにそのひとつであるが、この土地の幸福は、往時をよく知る者のひとりに、清方という稀代の絵描きがいたことに他ならない。(つづく




 ※築地川の埋め立てについては、以下のブログでかなり詳しく調べ上げられている。よくもまあここまで



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